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渋谷宮益坂上の中村書店に行ってみなさいなないろ文庫ふしぎ堂 田村 七痴庵 |
石神井書林、内堀弘さんが、青山学院大学の、どうせろくでもない学生さんだった頃、非常勤の講師として、詩人・黒田三郎さんの講義の時間があったんだそうだ。 内堀弘は、一九五四年生まれ。中退となる青学に入ったのは、七〇年安保がおわってケンカ過ぎての棒千切れ状態の一九七二年か七三年。 実はその時、中村書店をつくった中村三千夫さんはすでに亡い。亡いのだが、棚は残っていた筈で、良子夫人が、こどもを育てつつ店を守っていた。中村三千夫さんが亡くなったのは、一九六八年八月十七日。夏のまっさかり、恵比寿にあった古書市場で、市のたっているただ中であった。友人であった富岡書房・富岡弦さんが書いている。中村さんが、すすめていた共同目録「雲の会」第一号の原稿を持って、市にやってきた、その日、その場所。 ―山帖を書いていた私の後ろの椅子に座って居た時、突如鼾をかき昏睡。其後意識を回復しなかった。― |
亨年四十六歳。 三千夫はその名の通り、四人のこどもたちの三番目。長女の満里子さん(今回の資料となった聞き書きを、息子の中村正彦さんに依頼し、快諾を頂いて、月の輪書林南部支部機関誌部長ともども五反田の中華料理屋の二階で話をうかがったが、彼のニュースソースの多くは、まだお元気な、満里子さんから得ているそうだ)、すでに亡くなっている長男さん、そして次男の三千夫である。その下に次女の千恵子さんがいらっしゃる。 「つまりおぼっちゃんだったんだろうね」 昭和二十四年 中村書店創業。 では整理してみよう。こういう具合か、 やはり富岡弦さんの証言。 「中村さんは戦争に行った?」 |
しかし、おそらく、富岡さんの言う様に、窪川書店、玄誠堂といった明治文学の血脈をどこかで中村三千夫は受け、それをはぐくみつつあったのだ。月百円のこづかいのほとんどは本代に消えていった。たとえば昭和十四年、西條八十『少年詩集』は講談社で一円五十銭。その頃の百円はけっこう使い出のある金額だったと思う。その月々百円が中村三千夫を中村書店へと育てていったのに違いない。そして、おそらくは、友人たち。どんな友人たちがいたのか。 「おふくろとおやじがいっしょになったとき」 そして昭和二十四年、中村三千夫は、中村書店を創業する。宮益坂上に、なんと、実家の納屋を横浜から移築して、はじめたという。立派な納屋じゃないですか。それには実家からの援助もあったのだろうけれど、そこでまず自分の持っていた本を売りはじめたという。そればかりでは勿論、ない。 さまざまな詩人とのふれあいがつづくが、北園克衛もその一人。中村書店のしおりも、北園による。その頃北園克衛は広尾に住み、北園やVOUの詩人たちの詩集、又『VOU』も、取り扱っていたという。 |
そういう詩人たちとのつきあいの中で、たとえばこういうことがある。 中村三千夫にはこのように詩書出版への思いがあった。今、手にとってみることのできるものが三冊。いずれも昭和三十二年刊。『大地の商人』谷川雁。ただし再版、九州「母音社」からでた初版が品切となり、同じかたちで再版を中村書店がひきうけたものだろう。その谷川雁も今は亡い。そして『独楽』高野喜久雄と『子供の情景』加藤八千代、の二冊。 その志をともだちが、ついだ。 中村三千夫が友人に恵まれていたのか、中村三千夫という人を知って、そのひとたちが応じたのか、木内茂さん、高橋光吉さん、富岡弦さん、高橋理さん、飯田淳次さん、鈴木鈴之介さん。多くの友がその死を悼んだ。 そして共同目録をつくろうとした「雲の会」、はたまた「若い研究者の著述の自責出版を組合でやってみたらどうだろうか、書店にとって本が増えるのはよい事だし、専門店がそれぞれの分野で販売に協力すれば若い研究者も助かるのではないか」という理事をひきうけた頃の卓見。卓見はまだあって、 |
さて、中村書店、中村三千夫の店に、もどろう。そこは詩人たちのいきかう場所だった。すれちがうというのかな、かの有名な白山南天堂ではないけれど、西脇順三郎がかけこんできたり、北園克衛が本を持ってきたり。福永武彦が棚をみていて、安東次男が立話をしていたりというふうな。 「そうだ。店に、ふろおけセットおいてるお客さんがいたんだ。あれは、青学の先生だったのかなあ。」 死期をちぢめたかもしれない、酒と仕事。昭和四十二年『西武デパート』古本市に参加する。 「日曜はかならずといっていいほど家にいなかったなあ」 |
中村正彦さんが父の三千夫の三十三周忌に49頁の小さな冊子をつくった。家族用に限定七部ときく。そのコピーをいただいた。目次は以下。 貧しい本稿の豊かな証言引用は、全てこの小冊子によっている。 表題は、版画家伊東昭氏が谷中安規の本を探して、大森の山王書房で『居候勿々』『百鬼園随筆』の正と続、『百間座談』※1を手に入れ、帰りしなに言われた言葉である。 ※1 文中の『百間座談』の「間」は本来「門がまえのなかに月」という文字ですが、表示環境を考慮して「間」という字を使用しました。 |
東京古書組合発行「古書月報」より転載 |
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