つぎにダンセイニ作品の流れから考えてみたい。処女作品集である「ぺガーナの神々」は、ダンセイニの幼少期に見た無垢なる記憶が
〈神話〉という形で形象化されている。ダンセイニ好きで知られる作家、稲垣足穂「一千一秒物語」にもいえることだが、両者とも〈世界解釈〉(=〈神話〉)の物語という側面がある。その視点から切り込むのであれば、風土的な差異と作家としての嗜好の差異とがそれぞれの作品の違いになっていることに気付かされる。「一千一秒物語」には、足穂の人工物への傾斜があり、そしてなにより月も星も人間と等価に存在する世界である。そこには絶対的な存在が前提として存在しない。すべての事物はオブジェとなり、永遠の運動をくりかえす。宇野邦一氏のいう「和製の未来派、星菫派」の装いにつつまれたモダンな〈神話〉なのだ。一方、「ぺガーナの神々」は、絶対者が夢みる多神教的世界という構造に絶対者という意識が
ある時点で一神教的な価値観の投影を感じさせる。結局のところ、根本的なところには「ぺガーナの神々」にも西洋的な根が存在している。両者に共通するのは、世界そのものも突き放す創作者としての自我の強靭さである。これは、ある種の強みといってよいかもしれない。創作者としての強靭さが二人の作家としての長い歩みを耐えさせたようにも感じられる。「ぺガーナの神々」における暫定的な脆い多神教の世界には、儚さゆえの美しさというものも計算されていたようにも思う。原初性、つまり、自分の言葉で世界を把握することのできた黄金時代、そうしたものは当たり前だが一回性を前提とする。しかし、こうして形象化されたダンセイニの幸福な記憶は、読書という行為を経ることでなんどでも復活する、ある種の永
遠性、不死性を獲得することになったのではないだろうか。
「ぺガーナの神々」における唯一神の夢見る多神教的世界、「ヤン河の舟歌」における、アイルランドから来た「私」が見聞する多神教の世界という構図に、ダンセイニの内的な緊張関係の投影を認めるとするのならば、そこにはダンセイニ自身の〈汎神論的感受性〉と〈一神教的価値観〉の〈対立〉をみいだすことができるのではないだろうか。初期ダンセイニの創作衝動は、すべてこの内面における異なる価値観の衝突から起因しているように感じられるのだ。そうした文脈で考えるのならば「サクノスを除いては破ることあたわぬ堅砦」などは、ダンセイニ自身の未知の領域である内世界における汎神論的なものを一神教的なもので照らし出そうとした軌跡を冒険譚としてのこしたのではないかと思うのだ。龍殺しを経ることで敵である魔術師と対等の地平にたつ英雄レオスリックは、結果として人間世界への回帰を許されない。それゆえにラストの強制的な距離感を設定する、有名なあの一文が登場することになるのだろう。レオスリックの内的な探索行もやはり一回性のものであったのだろう。「ヤン河の舟歌」においても以降の二部作で「私」が二度と川鳥号に乗船することができなかったように。こうした初期作品から認識される作家としてのダンセイニの気質に、風景先行型、閃き重視、短編型という側面を認めることができよう。
さて、初期ダンセイニにおいて総決算的な色彩をもつ長編がある。傑作「エルフランドの王女」である。初期短編に好んで用いられた主題がすべて投影され、妖精の王女と人間の王子との恋愛をめぐるファンタジーであるが、この作品のラストには、ダンセイニの作家としての変化が投影されている。これまでの作品世界を支えた〈対立〉という要素が〈融和〉に変化しているのだ。「エルフランドの王女」の最後は、妖精の国と人間の世界とが一体化した形で終わる。ここにダンセイニ自身の感受性の問題の投影を認めるのならば、どのようなことがいえるだろうか。ひとことでいえば、妖精の国に〈汎神論的気質〉を、人間の国に〈一神教的価値観〉が仮託されているとするのならば、それは二つの異なる価値観の〈融和〉でしかないだろう。そして、この「エルフランドの王女」以降に登場した「ジョークンズもの」つまり、ホラ話という形態で、幻想を現実世界に〈融和〉させるという作品群が登場し、ダンセイニは、ハイ・ファンタジーの世界から離れ、現実と夢想の交錯した作品世界を増加させてゆく。つまり、ダンセイニは「エルフランドの王女」の発表以前と以降とで作家としての相貌を変化させるのだ。いわゆるファンタジーの祖としての役目をダンセイニは「エルフランドの王女」を執筆することで終えたようにも感じられるのだ。
私が「エルフランドの王女」のラストシーンに感じた異世界の輝き。しかし、けっして届くことのない、たどりつけない場としての距離感の生み出す美しさ。こうした距離感によって保証される幻想美は、やはり儚さを基調とした夢想そのものに近いのだろう。ただ、そうした幻想性をメインとした形での作家像の把握に私は違和感を感じる。より端的にいうのならば、荒俣宏の論考にあるような作家を神秘化、絶対化するような志向には一切賛同することができない。荒俣宏の恣意的なダンセイニ紹介はすでにあきらかだが、この荒俣史観ともいうべき前提からダンセイニをとらえる限り、新しいダンセイニへのアプローチは決して生まれることはない。作家の神格化からはなにも生まれないからだ。時代は常に動き、人の価値観もまた
流動的である。そして、時代時代によって作家像も変貌する。その時代にそぐった新しいダンセイニ像を読み手ひとりひとりが確立すればよいのだろう。逆にいえばそれだけ柔軟かつ豊かなものをダンセイニの遺した作品世界には内包されていると私は確信している。
了
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