水底の歩むこゝちす月青くほのかに霧につゝまるるとき
「薄明」の章に収録された一首をあげた。何気ない感覚を詠っただけにすぎないようだが、私はとても気になる歌である。「月」が「青く」「ほのかに霧につゝまるるとき」に「水底」を感じる主体の感性には、水中の世界を陸の世界との対置となるものという視点にたつのであれば、現実を逆転した視座でとらえなおそうとする意識を見出すことができよう。私が矢野目源一の内世界に戦後の山師的な生き方につながるものを見出すとすればこうした要素である。そして、詩集「光の處女」(大正九年十二月二十五日刊)が発表される。この詩集は、詩誌「詩王」に発表されたものを中心に十四編の詩が収録されている。この詩集の性格は、冒頭の「光の處女」に顕著である。
光の處女
O isplendor di viva iuce eterna. Dinte
光の處女[おとめ]悩めるわれに顕現[あらは]れて、
深き眼差に啓示[さとし]をたたへ、
杳かなる姿を戀ふる心に、
滅びざる春と優しく微笑[ほほゑ]めり。
美はしき調和の方へわれを導く
至高の愛ここにわれと偕[とも]にあり、
王者の如くおほらかに心足[た]らひて、
若き希望[のぞみ]に踏みもゆく花満[み]てる路。
敬虔[つつま]しき、けれど烈しき祈祷のうち、
再生の歡喜[よろこび]にうちひらく眼[まなこ]の前、
輝く處女[おとめ]、壯嚴の世界に立てり。
われ恍惚に身も痺[な]えながら、
けざやけき光となりて翔り出て
ましろき夢に君を護らむ。
種村季弘氏の指摘にあるように、宗教的、神秘主義的な色彩は、「詩王」当時の傾向に影響されたものとみてよいだろう。歌集「搖籃」でみられたような素朴な色合いは、すでに稀薄な要素となっている。この詩世界においては「光の處女」という形で描出された自身にとっての創作行為がよびおこす感興そのものが、対象化された形で展開されている。ここで注意したいのが、作中主体における美の神ともいうべき「光の處女」が、〈異性〉という様相を示している点である。自身と対等の地平において〈異性愛〉という形で表出されるもの。ここにおいて宗教的な意匠で示されているものは、おそらく矢野目における〈無化〉への希求そのものではないだろうか。かつて私は戦後における矢野目を貫いた唯一の論理としての官能性(エロティシズム)の裏に対象化されぬ宗教性があるのではないだろうかと考えていた時期があった。そして、高橋たか子や遠藤周作らのカトリック作家らの文脈と絡めて、矢野目源一における救いの問題について考察を試みていた。結論からいえば、その試みは失敗に終わった。矢野目源一の内世界において、宗教性そのものが稀薄であるからだ。ある絶対的なものへの傾斜そのものを矢野目源一の生涯を通じて仮定できないことを悟ったのだ。ありとあらゆるものに変化できるという矢野目源一という存在に、確固としたものがあると推測すること自体がナンセンスである。異性愛という要素の普遍化を私が誤ったということだろう。続けて他の収録された詩を幾編か掲げる。
夜の空
白き臥床[ふしど]に身を起し
眺め入る冬の夜の荒涼のなか、
心はなほも恐ろしき夢におびえて、
寂[さび]しき風と吹き過ぐる
孤獨なるわが魂[たましひ]は
大空の哀[かな]しき鏡に映る。
涯もなくさまよふ我か、
驕慢と悔恨[くゐ]に追はれて…
うち仰ぎ祈り沈めば
空かけてきらめきいづる
聖[きよ]き道[ことば]の白き大河[たいが]は、
この胸を奄ノ浸[ひた]す。
あゝわが故郷[ふるさと]は彼方の空…
夜の愁ひはひろがれど、
病み悩みたる憧憬[あこがれ]は、
かしこに母の唄をきく。
われかくて若き力にみちみちて
心は歌ふ。
また、
夜の丘に立ちて
月はのぼりぬ。
恍として夢の姿の美しく、
奄モばかりの熱情にうちけむりつゝ、
みよ、天心[てんしん]を吹く風は、
月を負[お]ひし雲の群れつどふ
寂しき饗宴のさなかに
青き星宿を花降らすなり。
われ夜の丘に立ちて
追放[やらはれ]の現身[うつしみ]を歎き、
望郷遠く心悲愁[かなしみ]に堪へず。
「病み悩みたる憧憬」「追放の現身」という語にみられるような疎外感の自覚が、矢野目の生の根底論理のひとつになっている。逆にいえば、矢野目源一の文学には、はじまりから一貫して生存そのものを覆うような虚無感を内包していたということだろう。
前編を読む 後編へ続く
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