F.S.Osgood夫人はBostonの商売Joseph Lockeの女として生れた。かなり有名なjournalist A .A Lockeは夫人の兄である。詩人であり散文家でもあつたE.D.Harrington夫人はその妹である。少女の頃から詩技に長じてゐて度々”Juvenile Micellany”と云ふ雑誌に詩を掲げた。夫Samuel S.Osgoodには1834年にはじめて會つた。後には高名の画匠となつた人であるが当時は英京龍動の王立美術学校を卒へたばかりの、白面二十六歳(日本流に云へば二十七歳)の青年であつた。二人は結婚して直に龍動府に渡り、夫Osgoodの名は肖像画家として漸く知られるに至つた。Osgood夫人は英国で、まづ”Casket of Fate”(年月不詳)と題する小詩冊を刊行し、亞いで1839年”A Wreath of Wild Flowers form New England”と題する詩冊子を刊行し。基處で”The Poetry of Flowers and Flowers of Poetry”を上梓した。1847年には費府で”The Floral Offering”を刊行し。1850年にはまた”Poems”を上梓したが、これは死後全詩業を纏めたもので、例のPoeの遺稿管理人で、Poeの悪口を書いて有名なGriwoldがその編纂に当つたのも何かの因縁かも知れぬ。Poeが夫人の詩集評を書いたことは実に一再でない。Poeが夫人にはじめて會つたのは、嚢に述べたとほり、1845
年三月である。これは彼が友人N.P.Willisに要請して紹介して貰つたのである。
その會ふ数日前、Willisは、当時発表されて、その一篇のみを以てしてもPoeが名は不朽であると云はれる傑作”The Raven”を夫人に示して、作者があなたの御意見を承りたいと云つてゐると傳へた。夫人は”The Raven”の”werid unearthly music”にうたれて、彼が紹介を求めてゐると聞いたときには幾ど怖ろしかつたと云つてゐる。然し別に是を失體に当らずに断る口実もなかつたし。それに嚢頃(1845年二月二十八日)講演で自分の詩をほめて呉れたと云ふ話をきいてゐた矢先でもあつて、とうとう會ふことになつた。その折のことを夫人はかう書いてゐる。
“I shall forget the morning……I was summoned to the drawing room by Mr.Willis to receive him.With his proud and beautiful head erect,his dark eye;flashing with the electric light of feeling and thought,a peculiar,an inimitable blending of sweetness and hauteur in his expression a d manner,he greeted me calmly,gravely,almost coldly:yet with so marked an earnesteness…I could not help being deeply impressed…..From that moment until his death we were friends.”
しかしこの「生涯友人だつた」と云ふのは、心持の上でだけだつた。夫人とPoeとの親しい交遊は、間もなく口さがない文人(殊に女文士)の口の端にのぼるやうになり、やがて新聞雑誌を賑はすやうになつた。その矢先を、Poeは過労の結果(一説に飲酒の結果)精神の自制を失つた、’46年六月中旬に、労咳を病むOsgood夫人が養生の為め転地した先を追つて、Rinode Island州Providence Massach usettes 州 Boston 同州 Lowell の仮寓を、夜中に襲つたりした事件が起つた。そして紐育州Winchester Country なる Fordhamの己がCottageに帰るまで、全く明確な意識を欠いてゐたのである。この時以来Poeの方でも謹慎し、夫人の方でも遠慮して事実上の交遊はこれで了つた。
しかし、この二人の交遊が一体その程度のものであつたかと云ふとことはよほど疑問で、はつきりしたことはわからない。夫Sam.S.Osgoodは、Poeと親しく交際してゐて、何等両人の間に不和を来したと云ふ記録はない。現にOsgoodの筆或は筆と称されるPoe像も数枚存してゐる。Poeの妻Virginiaと夫人とも姉妹のやうに親しくしてゐたと云ふことである。これはこの女達が等しく労咳を病んでゐた為だと云ふ説もある。
Osgood夫人は1850年に労咳を病んで死んだ。R.H.Stoddardと云ふ男は夫人のことをかう書いたゐる。
“Mrs.Osgood was a paragon.For loved of all man who knew her,she was hated by no woman who ever felt the charm of her presence.Poe was enamored of her,felt or fancied he was,which with him was the same thing.”(Independent,Feb.I,1894,quotedly Phillips,op.cit.p.991)
だが、画で見るとOsgood夫人はあまり綺麗な女とも思はれない。
Osgood夫人の詩は多く読んでゐないのでたしかなことは云へないが、たゞ割合に素直で、affectationのないのが、とりえだと云ふ程度のものらしい。
PoeのOsgood夫人月旦を例の”Literati”から引くとかうである。
“Mrs.Osgood,for the last three or four years,has been rapidly attaining distinction;and this,evidently,with no effort at attaining it.She seems,in fact,to have no object in view beyond that of giving voice to the fancies or the feeling of the moment……..and the invention of Mrs.Osgood,at least,springs plainly from nessecity −from the nessecity of invention.Not to write poetry−not to act it ,think it,dream it,and be it, is entirely out of her power.”
この冒頭だけ見ても、Miss Lynch評のお座なりとは心組が違ふ。これから縷々としてPoeの述べるところは、夫人の作品評ではない。夫人の擁護論である。Poeのこの月且の態度を極端に云へば、「夫人の書いてゐるものはつまらない。しかし、それは夫人に才がない為めではない。唯夫人の天賦の全姿相を表はすChanceが未だ到来しない為めである。」と云ふにある。此處に夫人の制作に対する、評家として精巌公正を誇つてゐた彼の藝術家としての立場と、充分以上に好意を寄せてゐる夫人その人への彼への友情との板ばさみになつてあがいてゐるdilemmaを看取することが出来る。そこで、
“She might,upon the whole,have written better poems;but the chances are that she would have failed in conveying so vivid and so just an idea of her powers as a poet.”
と云つて見たり、また夫人の幼児の作を集めた處女詩集中の”Elfrida,a Dramatic Poem”に就いて、
“I allude chiefly to the passionate expression of particular portions,to delineation of character,and to occasional scenic effect; in construction, or plot,in general conduct and plausibility,the play fails.”とか、
“As it is,she has merely succeeded in showing what she might,should,and could have done,and yet,unhappily,did not.”とか、
“Mrs.Osgood,however,although she unquestionably failed in writing a good play,has,even in failing,given indication to dramatic power.”
とか云ふ、実に苦しい、しかし、実に巧な表現の已むなきに至るのである。これ等の評語は、多分に、恐らく過分に好意的ではあるが、決して鷺を烏と云つてゐるのではない。この微妙な表現にもPoeの才能が覗へぬではない。事実、夫人の作品の部分的な効果は、Poeのあげてゐる
“Thou lovest him not ?−oh,say thou dose not love him!”
と云ふ男の言葉に対する女の返辞、
“When but a child I saw thee in my dreams!”
などに見られないではない。
しかし、本質的な立場から見ればこの女の作などは幾ど問題にするに足りないことは充分にPoeも承知してゐたのである。それで、あくまでもその根本に触れるのを避けて枝葉の妙ばかりを讃へてゐる、このPoeの態度が面白い。評家としてのPoeの炯眼は、世人の未だ認めざる年少無名の作者たりしHawthorneを認め、Tennysonを称し、Mrs.Browning(当時のMiss Barrett)を讃したに微しても知れる。その彼が殊更にとぼけてかうした評語を下してゐるsituationが面白い。そして挙句のはてにかう云つてゐる。
“Upon the whole,I have spoken of Mrs Osgood so much in detail,less on account of what she has actually done than on account of what I perceive in her the ability to do.”
猶、Mrs Osgoodに献じたPoeの詩は他に二つある。”To F−”と云ふのがひとつ、”To F―sS.O−d”と云ふのがひとつ。いづれもむかし他の女に献じた詩を些か改めただけのものである。
最後に、このacrosticに就いて、情状酌量すべき点が二つある。ひとつは嚢に掲げたMiss Lynchの書状に覗はれる彼の”desponding tone”で当時彼が快々として娯しまず、ほんたうの藝術上の制作に手をつけること能はずして、欝悶を晴らす銷閑の具としてかかる遊戯文字に耽つたのだと云ふ事実である。今ひとつはこの制作が1846年中のことであるに関らず、僅かに1849年に至つて漸く発表したと云ふ事実である。その間には足かけの算法で算へれば実に四年の歳月がある。その間この戯作詩は彼の筐底深く蔵されて陽の目に触れなかつたことである。
猶、Poeのacrosticを談ずるには、是非とも彼のcriptography上の天賦及び造詣を語らねばならないのであるが、今は論文を書いてゐるのではないから省いて、次のacrosticに移る。(未完)
※昭和4年発行の雑誌「英語と英文学」から原文まま再録しました。
|