Poeがacrosticのうち、生前公刊せられた今ひとつのものは”An Enigma.”である。これは彼が長逝の前年即ち1843年三月”Sartain’s Union Magazine”に掲げられた。この時評題は単に”Sonnet”であつた。今日の標題を付して掲げたものは、中一年隔いてPoe病没の翌年1850年、その嘱によつて彼が”literary executor”となつた例にRufus Willmot Griswoldの編纂した”The Works of the Late Edger Allan Poe,ed.Rufus Willomt Griswold,4 vols,,New York,1850”のVol.U.Poemsが最初であり、且その文も”Sartain’s Union Magazine”所掲のtextとは第十行中の一語を異にしてゐる。
Griswoldが何にして典拠してこの改竄を敢てしたか今俄かに識るよすがもない。Killis Campbellによれば(The Poems of Edger Allan Poe,ed.K.Campbell,Boston,n,d..p276.)、恐らく1847年Lewis夫人にPoeが送つた草稿(後段参照)若くは同夫人所蔵のPoe書類中の、雑誌の切り抜きを作者自ら改訂しておいたものに依拠したのであらうとのことである。これはたしかに首肯し得る想像で、Poeが幾んど異常なほどに詩稿も添削推敲に努めたことは隠れもない事実である。Poeが詩の幾んどすべては生前幾度となく繰り返して発表されたが、必ずその都度多少の改訂を試みてゐる。たとへば”Bells”の如き詩の第一稿は僅々十八行の小詩にすきなかつたが、三度稿を改めて今日の決定稿を得た時には実に四節百十三行の大作となつてゐた。また反対に。少時の逸作”Tamerlane”の如きは最初の詩集1827年本では四百零六行、1829年本では二百六十八行になり、最後に1845年本では再び’29年本と同行二百四十三行になつた。行数は同じでも、本文に改訂を加へてあることは云うまでもない。Griswold本所収の詩篇綜数四十有八篇のうち四十二篇以上は再三発表若しくは改訂せられたものである。
傑作”The Raven”の如きは実にその詩型を改めること十五回に及んだと云ふ(Campbell,ibid.,Introluction,p.xxxvi.)その詩稿改訂の動機が純粋に詩に対する忠実さと、熱情とばかりであるとは考へられぬ節もあるが、今はそれ等に就いて詳説する余裕がない。要約すれば、これ等の改竄が果して再度発表の所因となつたか、或は再度発表(むしろ再度売り込み)の必要がこの改訂をなさしむる原因をなしたかである。改竄のすべてが必然の結果とも思はれぬが、同時にそのすべてが売り込みの方便との考へられぬ。これ以上のことはその毎一篇の毎箇所に就いての考察に俟たねばならないので、こゝでは省略する。唯、Posにあつては詩の推敲は幾んど病的にちかい性癖で、従つてこの”An Enigma”のみがその例に洩れたと考へるのはむしろ不自然であり、従つてCampbellの説は先づ首肯するに足りることを誌しておけばよい。
但し、此處に多少疑念を挿む余地がありはしまいかとわたくしは考へる。その疑念とは何か?それはこの改竄がPoe自身の手になるものに非ずして、編纂者Griswoldの仕業ではなからうかと云ふことである。これは全然考へられない事とは思はれぬ。GriswoldがPoeに対して決して真の友情を持つてはゐなかつたことは、Poeの死後旬日を出てずして”Ludwig”の仮名を用ゐ猛烈な攻撃文を発表し、またこゝに述べてゐる”The Works”の第三巻巻頭に付載した”Memoir”もその攻撃文を増補した底のもので、Poeの悪徳(これはたしかにPoeが持つてゐたには違ひないが)を極めて誇張して述べ立てゝゐるのを見てもわかる。しかもそればかりではなく、その”Memoir”中に引用された尺ぼうの如き、これをGriswold没後その未亡人の手でBoston Public Library に寄贈された所謂”Griswold Collction”中の原文と比較すれば、Griswold自身の手練はもとよりPoeの尺ぼうに臻るまで、自分に都合のいゝやうに勝手に省略改竄甚しきは追加をさへ敢てしたゐたことは瞭かである(The Complete Works of E.A.Poe.ed,J.A.Harrison,New York,1902,vol.XVU.Letters,pp.197-198,200-209等参照)。更に一層注意すべきは事実は、Poeの生前、GriswoldはPoeの詩に対して既に恣に訂正を加へてゐる事で、即ちPoeの詩”The Sleeper”をGriswold編纂の”The Poets and Poetly of America,Philadelphia.1842”中に収める際、その第四十三行”Forever with unopened eye”を全然反対の”Forever with unclosed eye”としたのである。勿論Poeは訂正を申込んで”Is it possible to make the correction?”と述べたが(Harrison,p.16)参照。上記尺ぼうは日付なし、Harrisonの考定は1844?とあり。)Griswoldはその後数版を重ねる間もつひに訂正しなかつた(Campbell,op.cit.,p.213.)と
云ふことで、現にPoeは1845年四月十五日付の、鉛筆で走り書した書状にも、再び同一箇所の訂正を申し込んで、”Is it possible to make the alteration?”(Harrison,op,cit.,p.203.)と誌してゐる。これ等の点から考へて、わたくしの疑念は恐らく全然あり得ないことゝは云はれないと信ずる。しかし結局何等かの確実な新資料が発見されない限り、決定的な断案を下すわけには行かないのである。
だが、この訂正はどちらが加へたにしても、標題は最初の”Sonnet”よりも後の”An Enigma”の方が杳にいゝ。この詩の如きは決して厳密な意味でsonnetとは云ひ得ないからである。本文の改訂はどちらであつても別に差支へはないものゝ、やはりあとの方がましなやうである。
※昭和4年発行の雑誌「英語と英文学」から原文まま再録しました。
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