江坂遊覚え書き

小野塚 力

商業出版の世界におけるショートショートをはじめとする短編小説が、不遇の時代をむかえているように感じるのは私だけだろうか。 元来、長編小説よりも短編、特にショートショートに魅力を感じる私などは淋しいかぎりである。他方、商業出版ではなく、アマチュ アの同人誌の世界のほうが短編の分野が活性化してきているようである。たとえば、豆本作家である赤井都氏は、自身の製作する豆本 のテキストに短編を書き下ろし、商品として流通させる一方、ワークショップや展覧会を全国各地で開催し、精力的に豆本と短編との 流布に努めている。また、五〇〇文字までに限定した超短編というジャンルを提唱し、特集を毎号変えて発行される同人誌「超短編マ ッチ箱」を主宰するタカスギシンタロ氏や松本楽志氏の活動は、創英社からのアンソロジー二冊に結実しつつある。五〇〇文字という 枠内まで下ると、ここで定位される世界は完全さよりも不完全さ、なにかの断片のような余白部分が魅力となる。詩と散文の中間のよ うな、そんな世界だ。ショートショートは、超短編に比べると、お話としての完結性が問われるうえに文字数も飛躍的に増加する。四 百字詰め原稿用紙二〇枚以内までは許容される。ショートショートの魅力を一言でいえば、瞬間の魅力、切れ味の魅力である。小宇宙 としての完結性の魅力だ。

去年、最相葉月氏の書かれた星新一の評伝を参考にしながら、星新一論の改稿作業に従事していたときに気になったのは、星新一の唯 一の弟子といわれた作家、江坂遊氏の存在であった。作品集「仕掛け花火」が講談社から復刊され、一読、圧倒された。私見によれば、 江坂遊氏のショートショートは、星新一後期作品から出発している。つまり、神話、民話的な世界の境地をさらに押し進めている。長編 小説の魅力が持続性、長さに保証された世界の構築にあるならば、長編に拮抗し得るショートショートとはどのようなものになるのだ ろうか。おそらく、星新一の脳裏にあったのは、圧倒的な質量をもつ短編世界という発想だったろう。つまり、長さそのものはショー トショートそのものでありながら、発想、文体の総和から導かれる作品世界そのものの重さが圧倒的なもの。そうしたものの実現の可 能性を江坂遊氏の作品群に見出したのではないだろうか。事実、「仕掛け花火」に収録されたショートショートは、読み手の集中力を 途切れさせない。瞬間的な世界ではなく、持続的な感動をもたらすものとなっている。無重力の文体とよばれた星新一の文体と違い、 読み手を巻き込んでいく江坂氏の文体は、どちらかといえば饒舌さを感じさせる。星新一のそっけなさと比べると江坂氏の文章は読み 手に手を伸ばし、より高次の世界に引っ張っていくような気配に満ちている。星新一の後期作品は、発想本位の世界から自身の内世界 の注視へと力点を移したものとなっているが、江坂氏の作品世界は、後期星作品よりもお話としての洗練さをもち、作品世界の密度を圧 倒的に濃いものとして存在している。「仕掛け花火」の復刊以降、「ひねくれアイテム」「鍵穴ラビリンス」がやはり講談社から刊行 されたが、やはり期待を裏切らないものだった。この作家の作品が長く読むことができなかったという事実を私は容認し難い。出版社 はどこをみて仕事をしているのかともいいたくなってくる。ただ、商業出版でも短編は廃れたわけではない。たとえば、アンソロジス ト東雅夫氏が中心となっている八〇〇字のてのひら怪談などは目立った動きとして認識される。いずれにせよ、書き手と読み手の両輪 があってのジャンルの活性化である。江坂遊氏の今後が愉しみである。

                                                                    ― 完  


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