少し前に、学研から二冊の新刊が刊行された。一冊は訳者高遠弘美氏の見事な訳文が光る「Oの物語」、もう一冊は、続編である中篇「二つの心臓」と併せて金原瑞人氏の新訳で刊行された「最後のユニコーン」完全版である。長らく、ピーター・S・ビーグルは未読の作家だった。処女作「心地よく秘密めいたところ」も読み終えていない。この「最後のユニコーン」「二つの心臓」を読み終えて感じたのは、甘酸っぱい〈幻滅感〉ともいうべきものだった。本来、幻滅感は、理想形と現状とのギャップ、差分として想起される感情である。だが、「最後のユニコーン」における〈幻滅感〉は、いわゆる通常の意味合いとは異なるニュアンスが含まれている。わずかにだが、かつての理想形への憧れ、尊敬の感情が含まれている。いわば、裏返しの憧れともいえるのだ。この憧憬を含んだ幻滅感が私にはどこか切ない、甘酸っぱさとして認識される。もともと、作家自身が「古典的なヨーロッパのフェアリーテールへの愛を含んだパロディ」であり、ダンセイニなどの尊敬する作家への「オマージュ」でもあると規定する「最後のユニコーン」の作品世界は、相反する概念を同質のもののように結びつけ、一義に扱うという傾向が見られる。この物語自体は、最後の一頭と目される雌のユニコーンが仲間を求めて旅立つところから始まる。道中、魔法使いたらんとしてさまよい歩くシュメンドリックやモリーといった仲間を得て、探索を続けることになる。そして、シュメンドリックの魔法により人間に変身し、アマルシアという名を得たユニコーンは、たどり着いた先のハガードの城でリーア王子と恋に落ちる。結果として、ユニコーンはラスト近くで人間からユニコーンに戻ることになるが、本来、知るはずのないことを知る。
わたしは一度、死すべき運命を背負いました。わたしのなかの一部は、いまも人間のようなのです。わたしは泣けないし、なにも欲しくないし、死ぬこともできないというのに、心は涙と飢えと死の恐怖でいっぱいです。いまのわたしは、仲間とは違う。なにかを悔やむユニコーンなどいるはずないのに、わたしは違う。わたしは後悔しています。
永遠の存在(=ユニコーン)が有限の存在(=人間)の要素を抱え持つという状況。こうしたところにも作中における相反する概念の一義化という志向が窺える。こうした相反する志向を無理矢理、一意のものに変化させ、作品世界として定位するのは実作者としては相当体力のいることだろうし、極端から極端への移動は私には若者の特権のように感じられる。やはり作者のいうように「最後のユニコーン」は「若い作家の作品」なのだろう。
裏返しの憧憬とさきに書いたが、こうしたストレートに語ることのない作家の屈折が、私には、作家のはにかみ、照れ隠しのように感じられる。さらにいえば作家のはにかみはまま自身の創作へ求めるレベルの高さを示してもいる。ありきたりのものをつくりたくないという意識のあり方が投影されているのだ。
ファンタジーの多くは、一回性の始源性をめぐるものであるが、「最後のユニコーン」もまた同質のものをはらんでいる。ただ、失われゆくものをみつめる作家はどこか斜めに構えている。この姿勢こそが、この作品を若々しいものにしている。単純な喪失の物語ではない、祭りの跡を複雑に見つめる、そんな心境が垣間見られる。この作品における始源性は、王子の女性化したユニコーンに捧げられた思い、初恋に仮託されている。ユニコーンをめぐる処女性の連想とともに作中に発現する恋愛の相は、わたしには一回性の初恋のようにみえる。そして、回帰しえぬ時間への思いは、まみえることのできぬ去りゆくユニコーンたちとして示されている。リーア王子を中心に作品世界をとらえた場合、初恋を経て、子供から英雄の誕生と成熟までを描いたのが「最後のユニコーン」ならば、英雄の死を描いたのは「二つの心臓」である。ただ、リーア王が死を経て不変の存在になったとするならば、死ぬことではじめて恋するユニコーンと同じ世界の住人になったともいえるのだろう。そういう意味では「二つの心臓」は、リーア王の救済の物語でもあったのだ。リーア王の死を得て、ユニコーンとリーアの恋は永遠の相を得て、読み手の前に厳然と存在することになる。そして、幻想に不可欠な〈距離感〉は決して失われることがない。成就することがない悲恋であったとしても、瞬間の絶頂は、読み返される毎に読み手の前に再現される。瞬間の永遠化という相でも「最後のユニコーン」「二つの心臓」はとらえることができるように思う。「最後のユニコーン」はまぎれもないモダンファンタジーの傑作である。より多くの読者のもとに届かんことを。
― 了
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