ニッポン洋行御支度史(1)赤毛布

西出勇志

欧米への旅が「洋行」と呼ばれた時代、気負いと不安、優越感と劣等感を抱えながら旅した人たちの記録は、日本人と海外旅行の変遷についてさまざまなことを教えてくれる。そんな海外旅行記をひもとく時に頻繁に出てくる言葉が「赤毛布」。この言葉をご存知だろうか。

赤毛布と書いて「あかゲット」と読む。もともとは明治時代、赤い毛布(ブランケット)をマント代わりに体に巻き、地方から東京見物に出てきた人を指す。「田舎者」「おのぼりさん」の意である。夏目漱石や泉鏡花、徳富蘆花の小説にも出てくる言葉で、明治錦絵にその姿をとどめる。大槻文彦の「大言海」昭和初期版には「友ヲ見失ハザラムガ為ニ、目標トシテ、多クハ、赤毛布ヲ身ニ纏ヒタレバナリ、明治語ナリ」とある。 ジャーナリスト長谷川如是閑の兄で、明治・大正期に活躍した朝日新聞記者、山本笑月は「明治世相百話」(中公文庫)で揶揄しつつその姿を紹介している。

(毛布を)二つに折って細紐を通し、マント式にすっぽりと被る。我々には頼まれても出来ない芸だ。それで股引尻ッ端折に日和下駄、古帽子や手拭の頬冠り、太巻毛繻子の洋傘を杖にして、農閑の三、四月から続々上京、五人、六人、連れ立って都大路を練り歩く。

明治中期の作家、中村花痩の小説「赤毛布」は、相場に手を出して失敗し、身代を守れなかった商家の若主人の物語。東京育ちの主人公の落魄ぶりを象徴的に示す防寒衣として、赤毛布が登場する。そもそも赤毛布は、戊辰戦争の際に新政府兵士の防寒具として用いられたという。ではなぜ赤色か? 書誌学者で制服史研究家の太田臨一郎によると、幕末のころの英国の貿易商が、日本人はインド人同様に赤を好むだろうと赤毛布を送りつけたためらしい。 それが民間に浸透して田舎者の代名詞になり、それがさらに転じて海外旅行初心者を指すようになった。実際の赤毛布は明治期になくなったものの、海外で珍妙な服装や行動に及ぶ人を指す「赤ゲット」は、明治から現代にいたるまで、本や雑誌にしばしば登場する息の長い言葉になった。

1899(明治三十三)年に刊行された熊田葦城(宗次郎)の「赤毛布 洋行奇談」(文禄堂)は、後藤象二郎や大山巌、嘉納治五郎、星亨らの欧米での珍行動を面白おかしく取り上げ、米文学者の浜田政二郎は戦後、マーク・トウェインのヨーロッパ旅行記を「赤毛布外遊記」(岩波文庫)と訳して出版した。近年も海外に縁の薄いさまざまな人が「赤毛布」を冠した旅行エッセーを執筆している。

高度成長期の海外旅行を題材にした映画にもこの言葉はよく出てくる。1963(昭和三十八)年の東宝「社長外遊記」(松林宗恵監督)もその一つ。そこには海外に出掛ける同行の部下を「赤ゲット」と呼び、からかう社長が登場する。主演は先ごろ亡くなった森繁久彌。映画黄金期の人気喜劇シリーズの一作だ。 戦後の外貨持ち出し制限が緩和され、一般の人でも海外へ観光旅行に出かけることができるようになったのは、この映画が封切られた翌年の1964(昭和三十九)年4月。社長シリーズはパンアメリカン航空の協力の下、何本かの海外旅行ものを製作する。森繁や加東大介、小林桂樹、三木のり平が繰り広げる赤ゲットぶりに観客は笑い転げ、庶民には縁遠い海外旅行を夢見た。自由化の年の海外渡航者はわずか13万人。現在の百分の一にも満たない。 明治初期から大正、昭和まで、人々が憧れた海外旅行。その歴史を携行品から読み解く旅に出てみる。まずはドタバタ赤ゲットの社長シリーズから始めることにしよう。
 
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森繁主演の「社長シリーズ」は、1950年代半ばから70年まで続いた東宝の人気喜劇である。いくつになっても浮気の虫がおさまらない社長の森繁、実直で昔気質の加東大介、宴会好きで「パーッといきましょう」が口癖の三木のり平、そんな上役たちに振り回される秘書役の小林桂樹らが、会社を舞台にドタバタを繰り広げた。時代はまさに高度成長期、明るく溌溂とした当時の社会風俗がふんだんに出てくるのが楽しい。海外旅行も憧れの存在としてしばしば登場する。 まずは58(昭和三十三)年の「社長三代記」(松林宗恵監督)。ここにも森繁が渡米するエピソードが出てくるが、実際の渡航場面はない。新聞記事を見せて飛行機が飛ぶシーンを映すだけだ。シリーズ初の海外ロケは62(昭和三十七)年の「社長洋行記」(松林宗恵監督)。行き先は香港だが、これを洋行と呼ぶところに時代感覚がよく表れている。

森繁はサクランパスという貼り薬で知られる桜堂製薬の社長。東南アジアでの商売を広げようと、典型的日本人である営業部長の加東、秘書課長の小林とともに香港へと乗り込む。羽田空港で見送りの人々に手を振る晴れやかな3人は、ソフト帽を被ったスーツ姿。直後、機上の人となった加東はオレンジ色の魔法瓶を取り出す。中には熱燗の日本酒。重箱にはクサヤとタクワンがあり、周りの外国人が鼻を押さえる場面が展開される。加東には腹巻から金をつかみ出すシーンもあり、洋行赤ゲットぶりを発揮する役どころ。「いやあ、五十時間で世界一周の時代だ。南極探検じゃないんだから」というせりふが時代を物語る。 到着した香港で3人が肩から掛けているのは、ブルー地に地球のマークのパンアメリカン航空の鞄。フライトバッグ、オーバーナイトバッグと呼ばれた航空会社提供の鞄で、これは後に海外旅行の代表的アイテムとなる。JALのオーバーナイトバッグに憧れを抱いた人も多いのではないか。鞄と言えば、森繁らが持つスーツケースに移動に便利なキャスターは付いていない。その登場はずっと後年のこと。

香港に続き、翌63(昭和三十八)年にはハワイを舞台にした「社長外遊記」「続社長外遊記」が封切られる。森繁は、海外進出を図るデパートの社長。秘書課長の小林を駐在員として派遣した後、常務の加東、営業部長の三木のり平とともに常夏の楽園へと飛ぶ。 三木は機内で、リコーフレックスやミノルタオートコードに代表される当時主流の2眼レフカメラで写真を撮りまくり、加東は唐草文様の風呂敷に包んだ電気炊飯器を大切そうに抱えている。 宿泊先のホテル(ワイキキのハワイアンビレッジ)で、炊飯器で米を炊くのに夢中の加東は、ベランダに干していたふんどしを落としてしまう。ヒラヒラとワイキキの空を舞うふんどし。水着の女性を見るために三木が持参した双眼鏡で追うが、
「いいもの持ってるな」
「あなたのふんどしを探すために持ってきたわけじゃない」
そんな2人の会話が妙におかしい。既にふんどしはアナクロな存在で、それを拾った日系人役の柳家金語楼が「ハワイへ来るのにふんどしなのはyouくらいだ」と笑う。

一方の森繁は、エッチだけれど、彼らの赤ゲットぶりとは一線を画すインテリ。日本料理屋女将の新珠三千代と個室でしっぽり酒を飲んでいる。そこへ三木らがやってきて部屋をノック。邪魔されまいとする森繁は大声で怒鳴る。「サムワンイン!」
これは61(昭和三十六)年のミリオンセラー「英語に強くなる本」(岩田一男著)の冒頭にあるフレーズ。トイレに入っている時にノックされたら何と言えばいいかの英語表現だ。64年の東京オリンピックを控え、英語熱が高まっていた時代の話である。当時のちょっとインテリな観客は大いに笑ったろう。
  
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雑誌「ホテルジャンキーズ」57号(2006年8月刊)、57号(同年10月刊)初出に加筆
【プロフィール】にしで・たけし 1961年京都市生まれ。都内の報道機関から東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)に出向中。携行品を通した日本人の海外旅行史「モノ語り ニッポン洋行御支度史」を「ホテルジャンキーズ」誌に連載している(現在21回目)。共著に「アジア戦時留学生」「TVドラマ“ギフト”の問題」など。

 


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