海外旅行が自由化される3年前の1961年、現代教養文庫から「海外旅行ABC」が出た。著者は九州大教授で理学博士の三上操氏。59年に出かけた欧州視察を基に、旅程からチップの渡し方までを綴った海外旅行ガイドブックだ。携行品は特に詳細に記されていて、明治から現代までのトラベルグッズの変遷を調べている筆者のような者には実に興味深い。
戦後の混乱期を脱して増えてきた海外渡航者のために、役立つ知識を伝えようと執筆された。洋行の喜びと気負いが感じられる本であり、数多くの情報を盛り込んだことで出版時には関係者の間で評判になった。そんな本書の大きな特徴は、個人が自らの体験を基に書いたガイドブックである点だろう。
現在、実用的なデータを満載したスタイルのガイドブックは、出版社編集の組織だったものがほとんどである。しかし、海外旅行自由化以前、ベデカーシリーズなど欧米のガイドブックは充実していたが、日本語のものは非常に少なかった。数少ない例外の一つが、52年に日本交通公社が出した「外国旅行案内」である。ただ、世界中を網羅しているためにハンディーなタイプではなく、旅行先で持ち運びがしやすい4分冊スタイルとなったのは60年。この外国旅行案内は独占的な状態が続き、各出版社による一般向けの海外旅行ガイドブックの刊行はしばらく後になる。
それ以前、外国語の不得手な洋行者の頼りになったのは、個人ベースの日本語ガイドブックだ。嚆矢は、1867(慶応3)年の福沢諭吉著「西洋旅案内」だろう。詳細な観光案内などはないが、船賃なども示した実用的なガイドブックで、続編に当たる吉田賢輔編纂「西洋旅案内外篇」には英会話手帳も入っている。
明治・大正期は海外雄飛熱が高かった。海外旅行記、探検記などが多数出版され、その中で個人版ガイドブックもいくつか出ている。例えば、1909(明治42)年に出た出版人、坪谷水哉(善四郎)による「世界漫遊案内」。これは時代を感じさせる記述が多く、読んでいて楽しい。「同行者の選択」には「身分にも、年齢にも、甚だしい懸隔がなく、肝胆相照らして、膝栗毛旅行の出来る朋友が最もよい」とある。連れ立って外国へ出かける明治の旅を髣髴とさせる。
また、1920(大正9)年の「欧米視察案内」(平富平著)は「寝衣などの淫らな風をしたまま室外などに出てはならぬ」「ナプキンはチョイチョイ口を拭ふ為に使用するもので汗が出ても決して之で顔を拭くものではない」など“べからず集”が多数。宿泊のホテルに関しては「ウオルドーフ、アストリヤホテル 室代三弗以上」などの記述がある。
筆者のお気に入りの一つは、上村知清と荒巻栄の「米国旅行案内」(日米図書出版社)。1919(大正8)年に初版が出ている。同書は「久しく北米の地に在りて、此等の人々を送迎するに際し、通常の案内書なきに苦しみたる経験」から生まれた。米国人気質から観光ポイント、船、ホテルの過ごし方まで事細かに書かれている。巻末には「水や空、空や水なる大海原を進み馳せる巨船に身を託しつつある間の無聊を慰める」ための実録小説仕立ての読み物まである。これが何とも味わい深い。
題して「附録 夜の亜米利加 淪落の米国」。その一つ、「桑港魔窟探検記」を紹介しよう。
米国の邦字紙記者がフィリピン人になりすまし、日給2ドルでサンフランシスコの“商売宿”のボーイとなる。女のもとに通ってくる客は日本人が多いため、言葉が分からないふりをして男どもの生態を観察するのが目的だ。いささか悪趣味だが「日本人の助兵衛共がどんな顔をして、毛唐の女に鼻毛を読まれるかは素敵な観物」なのである。
ある日、商売宿に大手会社の日本人マネージャーがやってきて、五十銭銀貨をボーイに化けた彼にチップとして放り投げる。怒った記者はついに日本語で怒鳴る。「オイオイ、ふざけるない、一体君は我輩を誰だと思ってるんだい。知らなきゃ言って聞かせるが、実は新聞記者なんだよ。君らのような助兵衛先生のダラシなさ加減、国辱のさらし加減、さては真裸にされ加減を探ってやろうと住み込んだんだ。新聞で素っ破抜いてやるから覚悟しておきたまえ」。これは、長い船旅では格好の読み物だったに違いない。
ところで、この種の商売宿に関する記述は海外渡航記に数多く出てくるほか、ナイトライフ向けガイドブックに分類されるような本も昭和初期にはある程度出版されている。瀧本二郎、マダム・ブレストの「夜の倫敦巴里紐育」(欧米旅行案内社)や酒井潔著「巴里上海歓楽郷案内」(竹酔書房)などがそうで、専修大総長を務めた経済学者、道家斉一郎が西欧の売春事情を“足で書いた”奇書「欧米女見物」(白鳳社)も、こうしたジャンルに入らなくはないだろう。異彩を放つこれらの本についてはまた、別に一章を設けることにしたい。
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雑誌「ホテルジャンキーズ」62号(2007年6月刊)初出に加筆
【プロフィール】にしで・たけし 1961年京都市生まれ。都内の報道機関から東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)に出向中。バッグや衣類、ガイドブックなど携行品を通した日本人の海外旅行史「モノ語り ニッポン洋行御支度史」を「ホテルジャンキーズ」誌に連載中。共著に「アジア戦時留学生」「TVドラマ“ギフト”の問題」など。
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