曾我廼家五郎(1877〜1948)をご存知だろうか?
曾我廼家十郎とともに、近代日本で最初の本格的喜劇団を創設、明治、大正、昭和にかけて活躍し、日本の喜劇王と呼ばれた男である。型破りな人物で、1914(大正三)年に突然、ヨーロッパへ出かけてしまった。新派の川上音二郎一座のように海外公演をするためではない。西欧の演劇を見たいという思いはあったものの、当時では極めて珍しい、観光のための海外旅行なのである。
しかも「一言半言をも外国語を解さぬ」(「曾我廼家五郎洋行日記」)のに、女優志願の愛人との二人旅。五郎はヨーロッパで第一次世界大戦に巻き込まれるなど、波乱に満ちた日々を送った。親交のあった作家村上浪六は「曾我廼家五郎洋行日記」に寄せた一文で「世界的の大戦争に出喰し、その渦中に生涯一度の転手古舞を演じ、西に東に北に南に追われ逐われて、生命からがら遁げ帰りし」と書き、五郎を「喜劇の主人公」そのものだと記している。
ドラマティックな滞欧の日々を過ごして帰国した五郎を神戸で出迎えたのは、まだ子どもだった二代目渋谷天外。後に松竹新喜劇の創設者となる喜劇役者、劇作家である。その天外は自らの回顧録で、五郎の洋行について触れている。
大戦の最中、旅先で出会った欧州派遣将校、寺内寿一(後の元帥陸軍大将)の上着をしっかり握ったまま放さなかったなどのエピソードなど、大阪弁しかしゃべれない五郎のハチャメチャな旅を紹介した。その命綱は「会話のルビつき辞典二冊」だったらしい。つまり旅行会話集である。
曾我廼家五郎ほどではないにせよ、言葉のほとんど通じない国でのコミュニケーションで重要なのが、ボディーランゲージと簡単な言葉のやりとり。明治期から今日まで、外国語が苦手とされる日本人にとって旅行会話集は必須のトラベルアイテムだ。
こうした会話集の類は、維新直後の1869(明治二)年には出版されている。吉田賢輔編集「西洋旅案内 外篇」である。慶応年間に刊行の福沢諭吉「西洋旅案内」の続編ともいえるこの本は、横浜からサンフランシスコ、ロンドンまでの旅行費用などをドル換算で具体的に記した実践的ガイドブック。最大の特徴は全体の約半分を割いたルビつきの英会話集だろう。
邦文と英文を見比べると、実に興味深い。「私共は出立する」が「Now we are off」。食事の場面では「我に包丁を与へよ」。料理でもするのかと思いきや「give me a clean knife」とあり納得。「Beefsteak」は「やき牛」。どうも食欲がわく訳語ではない。
もう少し時代を下ってみよう。1906(明治三十九)年の「最近渡米案内」(山根吾一編纂)は、主に移住希望者に向けて米国での暮らしを紹介した本である。海外旅行という連載の趣旨とはややずれるが、旅行でも使えそうなユニークな文例が多いのでのぞいてみる。例えば洋服店での会話。「Coat and vest are all right, but pants is too long(上着も胴衣もよろしいがズボンは長すぎる)」。「Very well I will cut it for you(左様なら切らせましょう)」。胴長短足は日本人の基本体型。米国できっと遭遇する状況だろうと見越し、こんな例文を用意しておく。見事な心遣いではないか。
米国で苦学した労働運動家で社会主義者の片山潜が明治年間に書いた「渡米の秘訣」も短期旅行者向けではないが、多くの会話文例が出てくる。さらに「英吉利語獨脩」「日清英會話獨脩」「英仏獨和 四國新會話」などの本の広告が50銭から25銭の価格で並んでいのが実に興味深い。
ここで既に四カ国語会話集の存在が確認できる。当時の旅が基本的に周遊型だったためだろう。海外旅行は一生に一度。だからこそあちらこちらを観光する。そうした考え方が崩れたのは最近のことだ。
そんな周遊型の旅のための会話集で半世紀近くも続くベストセラーが、1960(昭和三十五)年創刊のJTB「六ヶ国語会話」。横長が特徴の本は東南アジア編などが出ており、「パンタロン」といった死語となった言葉を順次入れ替えている。表紙を外すと「Pocket interpreter」という英文表記。ビジネスパーソンが持っていても違和感がないように作られているそうだ。
× × ×
雑誌「ホテル・ジャンキーズ」65号(2007年12月刊)初出に加筆
【プロフィール】にしで・たけし 1961年京都市生まれ。都内の報道機関から東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)に出向中。携行品を通した日本人の海外旅行史「モノ語り ニッポン洋行御支度史」をホテル愛好者のための雑誌「ホテル・ジャンキーズ」に連載中。
|