恋のはじまりと似ていた。なんとなく気になる人、なぜか記憶にしみついた名前、オンチ・コーシロー。恩地孝四郎と書いて、時代劇にぴったりなのに、おそろしくモダンな仕事をしている。
「日本の版画」「近代日本絵画の秀作」「モダニズムの美術」「写真芸術の実験」・・・。
テーマはさまざまであれ、きまって恩地孝四郎作がまじっている。古書店の棚に詩集があったり、稀覯本コーナーでシャレた画文集を見かけたりした。
ドイツ文学のとかかわりで一九一〇年代ドイツの表現主義や、二〇年代の「バウハウス」の運動にわりとくわしい。
のこされた作品をたどっていると、やにわに恩地孝四郎が介入してくる。カンディンスキーが抽象画を始めたころ、二十代はじめの青年、恩地孝四郎が抽象版画をつくっていた。バウハウスの才人モホイ=ナジが写真芸術の試みをしていたころ、恩地孝四郎はフォトモンタージュやフォトグラム作品を発表した。ヨーロッパの動向をまねたわけではなく、造形のおもしろさを追求するなかで生まれたまでである。
それが証拠に、作品にはいっさい模倣やいただきモノのくさみがない。あきらかに一つの個性の刻印を受けて自立している。
自分ひとりの試みであれば、気に入った作品ができると、それでおしまい。
あきもせずくり返し、その分野の「権威」などにならなかった。
調べたり、考えたりしたことを「恩地孝四郎のこと」と題し筑摩書房のPR誌「ちくま」に十八回にわたって連載した。
つづいて本にする話が出たが、「中身がお粗末」と申しひらきをして断った。一九九六年のことである。連載分は長い眠りについた。
二〇〇二年、歌人・文筆家の辺見じゅんさんが幻戯書房をおこした。出したい本のなかに「恩地孝四郎のこと」が入っていた。連載中から愛読していたとか。出版を始めた人の常で、明日にも出したい口ぶりだったが、やはり中身の未熟さを申し立てて断った。そのかわり、創業十年のお祝いには、きっと満足のいく原稿をお渡しする・・・・・・。
口約束であって破るのは簡単だったが、辺見さんとは約束を守りたかった。十年にわたり親身に見守ってもらったからだ。
全面的に書き換えて、九年目の秋に渡した。いつも和服の辺見さんは、品のいい奥さまのたしなみで、胸元で合掌するように受けとった。それからちょうど一週間後、「辺見じゅん死去」の知らせがとどいた。
『恩地孝四郎−一つの伝記』は扉の裏に小さく「辺見じゅん氏に」の献辞を持ち、奥付の発行者も同じ名前をいただいている。 約束を守ることができたのがなによりもうれしい。
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