ひとは、一生のうちで、どれくらいの数の風景を目にするのだろうか。
数といっても、動画のように流れる中で、とても数えきれるものではないだろう。だが、遠い記憶の中の風景であれ、何かの拍子に、ふと甦ってくるワンシーンがある。それが、私たちの体の中にどのように整理されて、仕舞い込まれているのか。手元にある膨大な絵葉書を整理しながら、そんなことを考えてみた。
そのきっかけになったのは、ある絵葉書の研究会で聞いた「記録と記憶」という話だ。たとえば、写真の中にある記録、本の中にある記録。そして、ひとの脳の中にある記憶。それが、アナログからデジタルへという、データ保存の移行に伴い、どんな風に変化していくのか。今はまだ、世間で行われるデジタル化の中でも、ほんの入り口でしかないのだと。
いささか前置きが長くなったが、私の著書は、そんな記憶の中にある東京の風景を一冊の本にまとめたものである。関東大震災の後、大正から昭和にかけてのメトロポリス、東京における失われた(ロスト)風景を、主に絵葉書と地図、そして文章で再現した。もちろん、ほとんどすべてが今は失われた風景の記録ではあるが、読者の皆様の中では、掛け替えのない記憶として生き続けているものも多いだろう。
こうした本のタイトルでは、「甦る」といったタイトルが付けられることも多い。しかし、今回、編集、デザインを担当してもらった若いスタッフとのやりとりで、教えられたのは、ある年代以降の方々にとっては、こうした風景が新鮮で、かつ刺激的なものであるということだった。簡単に、ノスタルジックと定義すべきではなく、ファンタスティックで、ダイナミックな魅力をもつ風景であることを示すべきだと。そういえば、かつての街の夜は、闇が深く、それ故に、明るいライトが鮮烈で、コントラストが際立っていたものだ。
大正から昭和にかけては、自動車や飛行機、そして、地下鉄やモノレールという乗り物が、日本に本格的に導入された時代だった。人々はその恩恵にあずかった一方で、馬車や人力車、そして、市街電車といった慣れ親しんだ交通手段を手放した。絵葉書の中で見る乗り物が、一部で再び復活しつつあることをうれしく思っている方もいるだろう。そんな方には、この本を手にとってもらいたい。そして、身近な記憶ではなく、過去の記録として見ていた方にも、この本で、古い風景の新しさを発見してもらいたい、と思っている。
(了)
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