週間の書評新聞を刊行しているのに、その週の内に刷り増しして、書店に直接持ってゆく、なんて時代が時代があったことを信じる人が今、いるだろうか。六〇年代から七〇年代はじめ、三島由紀夫の自決、ベトナム戦争、浅間山荘の籠城、よど号のハイジャック、11・21新宿騒乱罪などの事件を背景に新聞は売れに売れた。そんな時代に私は「日本読書新聞」に入社した。まるで会社というより、全国で揺らいでいた大学の延長のような雰囲気だった。わずか一年後に編集長となった蒼白き世間知らずの青年の、良くも悪くも人生の価値観を決定してしまった。
吉本隆明と花田清輝の有名な論争をはじめ、埴谷雄高、竹内好、橋川文三、村上一郎、谷川雁等々、挙げれば切りがない。六〇年代、この国の言論界をリードしてきた人たちが、こぞって、ここを舞台に自分たちの主張を展開してくれていた。書評紙の出発点は戦争の足音が聞こえてきた1937(昭和12)年、当時の帝大新聞を拠り所に反戦の論陣を張っていた、学生たち、のちに哲学の祖といってもいい三木清、戸坂潤らが国からの弾圧に、では自分たちで広告をとって刊行すれば文句はないだろうと発刊をはじめたことにある。その余韻余波がずっと続いていたのだ。
しかし、高度成長からバブル期を通って今日にいたるに及んで、人は、いや思想ももの書きも商業化、芸能化の途を辿ることと反比例して、書評紙の発行部数は激減していった。
編集者生活の出発点でこんな時代に遭遇した男は、不器用だった。時代と共に曲がり切ることが出来ずに、ただまっすぐに歩き続けるだけだった。一人去り二人去り、やがて誰もいなくなった。男は出来もしない金繰りをやり、まっすぐな道でさみしい、などと山頭火の句に自分を重ねて悦に入り、酒を浴びては、同じ道を辿っている「図書新聞」に移り、足掛け五〇年になる。時代を背負って同伴してくれた出版社、竹村一の三一書房、石井恭二の現代思潮社、社会思想社、小澤書店等は姿を消している。今日の思想雑誌の魁をなした「伝統と現代」「技術と人間」もない。
かつて、書評文化のない文明国などない。欧米並みの書評紙を造ってやると、嘯いていた青年も、今や目がかすみ、肺に穴があき、足を引きずりながら酔いどれて、今にも沈みそうな泥舟の水を一所懸命にかき出し続けている。バカは死ななきゃ治らない男の半生記である。
『書評紙と共に歩んだ五十年』 井出 彰 著
(論創社刊、定価(税込):1,680円)
http://www.ronso.co.jp/
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