品川力(つとむ 1904〜2006)は、東京本郷の東大赤門前で「ペリカン書房」という古書店を営み、
多くの作家や研究者から信望を集めた書籍探索の達人で、自ら『内村鑑三研究文献目録』等を上梓する書誌学者でした。
新潟県柏崎の海辺近くにある品川牧場で父・豊治と母・ツネとの間に、五人兄弟の長男として生まれ、弟妹には後に詩人・品川陽子として知られる約百(よぶ・次女)、国内外で高い評価を得た芸術家の工(たくみ・次男)がおります。父・豊治は牧場のほか、品川書店や牛乳配達店も営んでおり、また夫婦共に敬虔なキリスト教信者で、内村鑑三の崇拝者であったことも、父・力や兄弟の人生に大きく影響したようです。
動物が好きだった父より、若い頃は飼育係になりたかった、と聞いていました。子供の頃、他人のまねをしていて自分自身が吃音者になってしまったから、他人とあまりしゃべらなくても済む職業を、と考えたようです。
結局、父はしゃべらなくて済む古本屋を選んだようですが、元々本が大好きで、趣味を超えて恋人の様な存在だったと聞いています。
一家で上京後、神田猿楽町に「品川書店」を開業しましたが、父が19才の時に関東大震災で店舗を失い、母方の叔父の紹介で勤めた銀座のレストランを経て、本郷東大前の落第横丁にレストラン「ペリカン」を妹弟と共に開業しました。
多くの文学者、作家、画家らが訪れ、一種の文化サロン風な雰囲気であったようです。
ところが、繁盛していたレストランを突然廃業し、3軒奥に「ペリカン書房」を再々転身で開業するのです。本は、レストラン稼業の合間に早朝割引きの電車で古本屋を回り買い揃えたようです。祖父の影響を多大に受け、内村鑑三研究をライフワークとし、文献学者、書誌学者として研究仲間に知られていました。
純粋で、少年がそのまま大人になった様な父は正義感も強く厳格でしたが、吃音の為か、口より先に手が出るという、やや短気な面もあり、ダダをこねたり、間違ったことをした時にはビンタされたこともあります。その反面、機嫌の良い時は本郷から都電に乗り、父の好きな西部劇で往年のスター・ゲーリークーパー、アランラッドの出演する映画を見せてもらいました。
カウボーイハットが好きで、
生涯愛用し父のトレードマークになっておりました。父の持論で、貴重な文献類は自分一人で死蔵せず、また散逸しないように駒場の日本近代文学館にせっせと愛車の自転車で運んでは寄贈していました。店で扱う本はキリスト教関係の思想書が多く、
来店されるお客様は限られており、大学や図書館に出向くことが多かったのは、そこで文学談義をする事が楽しみの一つであったかも知れません。
ある大学では、白髪でセミロングの風貌から「ライオンが来た!」と幼い生徒達から人気があったようです。私達兄弟が成人する頃の父は、外出以外は研究書、思想書、文献類等を熱心に読みあさり、周りが静かになる夜間によく物を書いており、必要がない限り、あまり家族とも世間話をする事もなく寡黙でした。ただ、人から頼まれると生来断り切れない性格なのか、従兄弟の写真家・立木義浩に頼まれファッション雑誌でモデルをしたり串田孫一氏より誘われて映画「上海バンスキング」に出演ました。
「自分のした事が相手の為になり、喜んでもらえばそれで十分だ」と、無欲で、もうけ主義とも無縁。探すのを頼まれた本も新刊書は一割引、古本も購入した時の価格で、労力・電車賃など上乗せすることなく、さらにお届けまでしており、我々には
到底理解が出来ませんでした。晩年は文学研究の友人、後輩達が先に他界され段々と寂しい思いをしていたようです。
そして平成18年の夏、猛暑の影響で一ヶ月位入院した後、自宅で療養生活をしておりましたが、兄家族が見舞いに来た一時間後、いつも話しかけてくる声が無く静かだなと振り向くと、キリストに祈る、両手を胸の前で合わせる姿勢で、息をひきとっていました。
11月3日。102才と9ヶ月余りの生涯でした。いろいろと述べてきましたが、父の生き様の一端でもお分かりいただければ幸いです。私が若い頃は、恨んだり、遠い存在だったりした事もありましたが、自分の信念を曲げずに貫き通した人生には、身内ながら敬服します。一方的に、こちらから書き記しましたが、父はどう想っているのか?今となっては誰にもわかりません。
本の配達人 品川力とその兄弟展図録
柏崎ふるさと人物館 本の配達人 品川力とその兄弟展
http://www.kisnet.or.jp/~k-museum/event/ev_20130917_003.html
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