いまテレビでは刑事ものがおおはやりである。リビングを通るたびに立見程度に見ていると、シロだのクロだのといった言葉が飛び交う。番組のレベルはさまざまで、2時間枠を採りながら始めの20分ほどでクロの見当がついてしまうような浅薄なものもあれば、シロ・クロに関わらず人の心の奥に潜むクロイものを描き出そうとする重厚なシリーズもあったりする。言うまでもなく、クロとは容疑者である可能性が高い人物、言い換えれば事件、つまり過去にあったことがらについて最も良く知っているに違いない人物をさす。
ところで、近世期の本屋は摺刷後に板木を洗うということをしなかったため、板木の殆どはまっクロなままで残っているのが普通である。しかもそれらは保存という感じではなく、何十年も埃に埋もれたまま、ひどいものは半雨ざらし状態で跳ねた泥をかぶり、辛うじて残されて来たというのが実状であった。1100枚ほどの板木の山をはじめて目にした時、「こいつらはクロだ!何か知っているに違いない」というのが筆者の印象であった。たたけば埃が出そうだし、泥も吐くかもしれない。
かくして筆者はたった一人で捜査本部を立ち上げて勝手にその本部長となり、「クロイやつら」を任意ではなく強制同行し、捜査に当たることになった。身柄留保も聞き込みも裏付けも調書作成も一人で行うのはなかなかつらいものがあった。しかも「クロイやつら」の数が半端ではない。が、刑事さんの苦労に較べればそれもたいしたことではなかったような気もする。生きているクロは、嘘をつく。事実を語らせるためには杉下右京さんのように「あなたはそれが許されると思っているのですか!」と人の道を説きながら厳しく問い詰めて行かねばならない。
そうしてやっと立件に持込んでも公判の過程で平気で自白調書を否定したりもする。しかし、人ではない「クロイやつら」に人倫を説いてもはじまらないし、そもそもやつらには嘘のつきようがない。つまり、あった事実しか語れないのだ。かくして本部長はひたすらにやつらを見つめ、その語りに静かに耳を傾けるということを根気よく続けるのである。お白洲に引き据えられた「クロイやつら」は概して神妙で、決してドラマチックとは言えないかつての日常を淡々とそして楽しげに語ってくれたのであった。
このようにして成った口書きの集成にいささかの事件らしいストーリー性を持たせて綴ってみたのが『板木は語る』である。かく題しながら、筆者には「クロイやつら」の語るところを本当に正確に聴き取れたのだろうか、もしや冤罪を生んでしまったのではないだろうかという一抹の不安も無いわけではない。口書きの取れていない少なからぬ「クロイやつら」はまだ何かを語りたげである。語りたげな「クロイやつら」にもう暫く付き合ってやることがその不安を拭い、迷宮入りを避ける唯一の手立てなのだと思っている。
『板木は語る』永井一彰著
笠間書院 定価12600円(税込)
http://kasamashoin.jp/2014/02/pdf_14.html
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