偏食というのは、本来子供のやることである。大人になっての偏食は、どこかその人の幼児性や心身の歪みを連想させる。また、子供時代には、美味しく感じられた食べ物が、大人になって客観的に見ることができるようになり、逆に子供時代は見向きもしなかった食べ物がやたら美味しく感じられることがままある。
文学の好みにも同じようなことが言える。時代の心の変化によって、流行っていた作品が読まれなくなるかと思えば、逆に忘れられていた作品に脚光が当たるケースもままある。
江戸時代と別れを告げて、日本は大きな変革を経てきた。だから、新たな歩みを始めた時、近代の草創期の文学者は、江戸文学の総体から、近代にとって都合のいいものを摘み取って、「偏食」してきた。
しかし、江戸が終わって一五〇年近く経とうとしている今日、そろそろ「偏食」を「偏食」と認めてもいい時期に差し掛かってきているのではないだろうか?1968年は、世界同時革命が夢見られたと同時に、明治百年の年だった。それから五十年近く、再度の東京オリンピックを日本は誘致する。日本の自画像と価値を、近代の見方から離れて、ありのままに評価する動きが来るのではないのかと思っている。
江戸文学に話を戻せば、西鶴・芭蕉・近松、あるいは蕪村・秋成・馬琴・一茶・南北。。。今も昔も、江戸文学の定番と言えばこのあたりだろう。しかし、こういう優れた「作家」の「作品」だけが「古典」なのだろうか。
平安朝の文学なら、「伊勢物語」も「竹取物語」も作者はわかっていない。「古今集」に撰者(編纂者)はいるが、単一の歌人の歌が入っているのでは、無論ない。江戸文学も「古典」である以上、匿名の作者や、大勢の作品を編集したものが含まれるはずだ。
また、江戸文学には、小説・詩(俳諧)・演劇といった近代の「文学」ジャンルには納まりきらない作品が、「文学」以上に多くある。そこを切り落としてしまったら、江戸文学の実態は半分だけしか見えないことになってしまう。
本書は、そうした問題意識から、従来の定番以外に「古典」たるべき作品を「選び直」してみよう、という目論見から編まれた。江戸時代のリーダーだったサムライの生き様を問うたエピソードの数々。漢文学全盛の時代にあって、日本とは何かを問うた学問的文章。学問そのものだった漢文で書かれた、詩・歴史・美術についての思索。そして、「文学」として読まれてきた小説や演劇作品の読み直し・・・。これからの五十年、百年へ向けて「江戸」と「古典」と問い直す野心が本書には満ち溢れている。
『江戸文学を選び直す』 井上 泰至・田中 康二 編
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http://kasamashoin.jp/2014/05/post_2918.html
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