ふらり、お店探訪

聞き手 矢下晃人 (アルカディア書房)

聞き手 宮部隼人 (古書 Dejavu)

文京支部は戦前から通販専門店が多く、現在でも支部員同士もお互い各書店の詳しい営業方法を良く知らない面の有る独特な支部と言えると思いますが、今回は書肆 文献堂の関根さんに、貴重なお話をお聞かせ頂きました。

宮部
関根さんのご商売についてお聞かせ頂く前に、古書店主の方の疎開体験のお話は出征体験に比べてあまり残されておりませんので、初めに関根さんが戦中、戦後どの様な少年時代を過ごされたのかお聞かせ頂けますでしょうか。
関根
昭和十年に下谷の仲御徒町で生まれました。戦時中だったから転校が多くて、最初は兄と同じ黒門小学校へ通っていたんだけど、十九年に空襲が始まってからは強制的に御徒町小学校へ移されて。さらに同年の八月十五日からは猪苗代湖畔にある、野口英世が生まれた翁島っていうところへ学童疎開してね。三年生の時で生徒は三十三、四人ぐらい、それに教員と三人の寮母さんが一緒だった。翌年の十月に東京へ帰ったんだけど、その間は「会津屋」っていう旅館で過ごしていた。
書肆文献堂
宮部
疎開生活は苦しいものでしたか。
関根
猪苗代湖畔だったから水浴びはできるし船にも乗れて楽しかったね。生まれて初めてスキーもやった。当時は食べ物に苦労したってみんな言うけど、そういうことは全然なかったな。「会津屋」が田んぼをかなり持っていたから三食とも白米で、四〜六年生の疎開先で出されていた代用食のサツマイモがやアワやヒエが羨ましいくらいだった。児童の誕生日にはお餅までついてくれたんだけど、「あなたたちはまた食べられるでしょ」って寮母さんが半分ぐらいは隣の旅館へ持っていって。

 元々避暑地で子供の数が少ない事もあったけど、授業は旅館の座敷で行って地元の子供との接触はたまの交流会くらいしかなかったから、軋轢みたいな物はなかったね。地元の子供には東京の金ボタンの制服が珍しがられたな。今でも会津の方達とは交流が有りますよ。
宮部
東京へ帰ってこられた時はどの様な印象を受けましたか。
書肆文献堂 関根さん
関根
上野の駅に降り立ったとき、目立った建物は松坂屋と営団地下鉄の本社ぐらいしかなくて驚いたよ。戻ってからは両親が身を寄せていた森川町のオヤジさん―叔父の小沼福松(文生書院さん)の家に住むようになり、今度は誠之小学校へ通った。

 戦後間もない頃はオヤジさんと二人でよく買い出しに行ったね。長い時間並んでようやく切符を手に入れて、「買出し列車」なんて今の若い人には耳慣れない言葉だろうけど、誰しもが食糧品を手に入れるのを目的に列車に乗るんだ。その頃二・三歳だった現理事長(小沼良成氏)が当時住んでいた茨城の赤塚にも何度か足を運んだし、大宮の日進に居た叔母の伝手を頼ってサツマイモを買いに行ったりもしたよ。

川越線に乗るんだけど客車ではなく貨車で、屋根がない車両もあった。駅の近場は買い上げられてしまっているから、二時間ぐらい歩いたところにある農家まで足を運んで。帰りの列車が大宮駅に近づく頃になると警察の荷物チェックが始まるんだ。
宮部
関根さんも没収されてしまったことはありましたか。
関根
さすがに小学生からは取らない。オヤジさんも平気だったんじゃないかな。お米を持っていた人は必ず取られていたけど、サツマイモには寛容だったのかもしれない。でも本当によく連れて行かれたね。中学生ぐらいだと荷物を持てる分没収される可能性も高いけど、子どもなら見逃してもらえるっていうことを計算に入れていたんだろな。
宮部
食料に関しては戦後の方がご苦労されたのですね。
関根
そうだね。ただ経緯は分からないけど、兄が進駐軍のPX(進駐軍関係者のみ買い物が出来る店舗)みたいなところで働いていて、ハワイ生まれの二世みたいな人がジープに乗ってよく家に遊びに来た。それでラッキーストライクなどの洋モクや物凄く長いベーコンの缶詰、チョコレートなんかを何キロっていう単位でくれるんだよ。「これが食べ物なのか」「こんなもの食べてる国に日本が勝てるわけないよな」って本当にびっくりしたね。あとは外食券を持って今も本郷にある「森川食堂」で食事したり、親父に言いつけられて、亡くなった小沼秀雄氏(小沼書店さん)とタバコ屋に並んで「ひかり」っていう煙草を買ってきたことなんかはよく覚えているよ。ちなみに秀雄氏は戦時中は、滝野川の軍需工場に徴用されていたんだ。
宮部
通常は入れない進駐軍キャンプに行かれた経験がお有りとの事ですが。
関根
中学生の頃だったかな、厚木の進駐軍キャンプの花火大会に招待されてね。初めてコーラを飲んだけど、瓶だけじゃなくてもう缶もあったな。今の缶コーラよりも凄く大きかった。その日だけはPXの商品を日本円で買うことができたんだ。

 他に進駐軍関係で印象に残っているのは昭和二十二年ぐらいだと思うんだけど、東大の正門がイルミネーションで飾られたことがあって、なんだろうと思って見ていたら軍用のバスが三台ぐらい入っていくんだ。守衛さんに聞いたらダンスパーティーだって言うんだ。たぶん御殿山会館の方でやったんじゃないかな。
宮部
本郷にも戦後一時期存在していた、古本屋などの露店のお話をお聞かせ頂けますでしょうか。
関根
本郷三丁目から赤門前辺りまで露店が続いていて、飲食店や古着を売っている店の中に本を扱うところが何軒かあった。警察の取締りですぐに無くなってしまうんだけど、やがてマーケットへ移ることになる。それが現在も続いている何軒かの古本屋の始まりだ。マーケットは今の漆原ビル(文京区本郷四―三七―一三)の辺りにあって、当時は米軍の放出物資を沢山扱っていたから「アメリカ屋」と呼ばれていたんだ。それも結局取り壊されてしまって各々が店を持つようになり、今の本郷通りのような形になるわけだ。

 上野のアメ横は遊び場だったけど、アメ横は「アメリカ横丁」ではなく飴屋がたくさんあったから「アメ屋横丁」になったんだ。その頃のアメ横は孤児がたくさん居て、こっちも友達と一緒にいかないで一人で行くと絡まれたりして危ないんだ。
宮部
彼らは施設には入らなかったのでしょうか。
関根
むしろ施設から脱走してきた子達なんだ。
宮部
戦後の一時期物資不足の為、上野の松坂屋デパートで常設の古書販売を行っていた時期が有ったとの事ですが、文生書院さんも出店されていたのでしょうか。
関根
出店しなかったけど、中学校の帰りに覗いた事は有ったな。中二階で販売していたけど普通の本が中心だったと思う。
宮部
物資不足の中、他には衣類などは普通に松坂屋で販売されていたのでしょうか。
関根
子供だったから詳しくは見なかったけど、その頃食料やタバコに比べて衣類は普通に買えていた。
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