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第三回:「わが町探訪 第一回 新宿『中村屋』(文京区本郷六丁目十八-十一)」

パン屋と本郷について調べてみました。

関東でのパンの製造は、横浜開港の安政六年以降、欧米人約千百人が住み、パンを注文するようになったため、一八六一年米国人グッドマンがパン屋を開いたのが始まりのようです。東京では明治三年(一八七〇)木村屋が銀座にパン店を開いています。海軍がパン食を採用したので一般にも急速にパンが普及しました。明治十五年に東京のパン店は百十六店になって、木村屋の一個一銭のアンパンは銀座名物になりました。

新宿「中村屋」の創業者「相馬愛蔵」(明治三年-昭和二十九年)は信州穂高町で代々庄屋を勤めた十四代相馬安兵衛の三男として生まれました。早稲田を卒業後実家に帰って養蚕の研究に勤しみ、「蚕種製造論」五千部を著わしました。

生来勤めが嫌いで、独立・独歩、商売をしようと親子三人上京し、本郷の帝大附近に落ちついたのは、明治三十四年(一九〇一)九月でした。「西洋にあって日本には未だ少ない商売」に決めて、「パン」に注目しました。パン食が将来普及し商売になるか試すため、夫婦で一日二回のパン食を三ケ月続けた結果、自ら自信を得ました。

十二月下旬、新聞『万朝報』に「パン店譲り受けたし」と広告を出すと数軒の応募がありました。その中に三ヶ月も自分達が買い続け、繁昌していると思った帝大前中村屋(店主中村万一)があったことは驚きでした。相場に失敗したとの事で製造設備、職人共一切居抜きで七百円でした。現在の商号「中村屋」は譲り受けた店の名前です。当時店売り八円、外売り五円合計十三円位で、家賃は十三円でした。

相馬夫妻は粉だらけになって働き、外売の愛蔵は箱車を使って霞ヶ関、青山方面迄往復しました。良夫人は店員のように「有難うございます」がスムースに言えず、千駄木の住居から本郷の店迄通う途中、森鴎外(一八六二-一九二二)観潮楼附近の太田道灌(一四三三-一四八六)の元城跡の原っぱで何回も練習したそうです。閉店後の売上計算は一銭二銭銅貨が多く、特に冬はあかぎれで指から血の出ることもしばしばだったと言っています。年始回りは昭和三年頃まで「勝手口」から良夫人が続けました。私の父もお得意様の自宅に古本を届ける時は正面玄関でなく勝手口からしたものだと言っていました。

愛蔵は研究熱心で更においしい「クリームパン」や「クリームワッフル」を作ったところ好評を得ました。その頃の小売業は銀座、日本橋が中心で、地元の人達をお客とする本郷では思うように売上が伸びませんでしたので、新しい土地への出店を考え、あちこちを見て回ったなかに「新宿」があったのです。愛蔵が銀座木村屋三代目社長木村儀兵衛氏に相談したところ「新宿はよい所です」と言われ、決心して明治四十年十二月に新宿支店を開店しました。三軒長屋の三軒を家賃二十八円で借りました。売上は一日二十五円-三十円で、営業を始める時に目安とした、一月の家賃はひと月の売上高以内でした。

JR中央線は明治四十四年全線が開通し、飛躍的な新宿の発展と共に中村屋も繁盛して今日に至っています。

一方本郷の店は店員がパン屋を引継ぎ「中村屋」の屋号は残っていました。昭和十年頃、私の家内は冬になると中村屋のパン焼き釜の上に乗り、身体を温めながら遊んだと言っていました。戦時中の食糧不足でパンを作る事が出来ず閉店し、現在は「喫茶こころ」になっています。

今日食品事業に大きな発展している「新宿中村屋」は百余年前本郷で開店したのです。

(文京支部員 棚澤書店 棚沢孝一)

(『慈愛だより(発行 慈愛病院様)』より著作権上の関係から初出掲載時の図版、地図を除いて転載致しました。また、連載の順序は初出時と異なります。)

(*編注 本文中の「相馬愛蔵氏」の「蔵」は厳密には異なりますが、正式な漢字が表示できない為、本文中では一般的な「蔵」と記載させて頂きました。初出時と異なる事をご了承下さい。)

本文中に登場する「新宿中村屋」創業の地の現在の写真

本文中に登場する「新宿中村屋」創業の地の現在の写真

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