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トップページ « 読みもの / 文の京サロン / 第七回:「わが町探訪 第二回『松屋(松屋ノート)』(文京区本郷五丁目二九-一二)」
明治になると社会に西欧文化の影響が見られるようになりました。
その一つ「大学ノート」の製造販売の店が本郷にありましたので、調べてみました。
大学生が講義を筆記するのに使うノート「大学ノート」は明治十七年(一八八四)、外国から帰った大学教授に勧められて「松屋」(本郷六-二二、現本郷五丁目二九-十二、通称落第横丁入□)で発売されたのが初めのようです。丸善が輸入万年筆の販売を始めたのも明治一七年でした。
当時国内では筆記用の用紙に、松屋の商標「SM.」のすかしを入れる事が出来ず大正時代の半ば迄はイギリスで特別に抄いたものを輸入しました。松屋の使用した紙はクリーム色で水性のインクも滲みることがなく、消しゴムも使え、滑らかで書き心地のよい紙質の筆記用具(フールスキャップ)でした。松屋はこの様な紙を用い罫紙の印刷、断裁、糸綴り、表紙付け、製本をすべて手造りで丁寧に作業し、製造したものです。
大正半ば頃には朝、店に山と積まれた大学ノートは夕方には完売する程よく売れたと言われています。ほとんどの人が「松屋」と屋号を言わずに「松屋ノート」と呼んでいました。昭和初期にはそのノートは一冊三〇銭位でした。(注 同じ頃、神田の三省堂でも同様のノート(S.S Dマーク)を発売しました。)詩人立原道造(一九一四-一九三九)も一高、東大在学中に松屋ノートを使い、その実物は「立原道迫記念館」(弥生二-四-五)の展示で見る事が旨来ます。
また、松屋は独自の原稿用紙も作っており有名でした。芥川龍之介(一八九二-一九二七)も松屋の原稿用紙を使用していた一人です。「芥川さんは何時も机の上には愛用の赤門前松屋の原稿用紙を部厚く積み重ねて置いて」と出入りしていた人が記しています。(芥川龍之介全集・月報(一九七八))。徳田秋聲(一八七一-一九四三)も「大学界隈」(一九二七)に「大学前の松屋はノートブック屋として遍く地方に迄知られた紙屋で家風の実直、商品の総てが優良」と書いています。十人以上居た店員の躾も厳しく、大学生が店に入って行くと、前掛姿の店の人が「お客様は何んなノートを御希望ですか」と丁寧に応対されて恐縮したと聞きました。昭和十九年戦時下の防火を目的とする「強制疎開命令」により松屋は奥の土蔵を残し落第横丁南側は壊されました。家は桧迫りで柱は八寸角(約二十五センチ)の堅牢な造りでしたから「大勢の人が綱を引いたけれどなかなか倒れなかった」と、その時作業をした大島政治氏から聞きました。松屋はその後強制疎開を免れた落第横丁の工場(本郷五-三〇-二)で営業していましたが、昭和二十八年にノート類の製造を止め、その建物は中華料理店大島屋の店となったのです。そして松屋は昭和三十年、株式会社を解散しました。
昭和三十五年頃本郷通りに面した松屋の土地の土蔵前は駐車場となり、年の瀬になると正月用の「しめ飾り」が売られていました。昭和五十五年には唯一残っていた松屋の土蔵も無くなって、赤門ロイヤルハイツの一部となりました。
「松屋」(一八八四-一九五五)の歴史はわが国近代化の歩みの一つです。その創業から終焉までが本郷にあったことも歴史と文化の町ならではの特色です。
この稿を書くに当たり、大島政治氏から資料の提供を受けた事を付記します。
値段史年表(朝日新聞一九八八による)
東京帝大授業料
本郷の下宿料金(三食付一室 月額)
(文京支部員 棚澤書店 棚沢孝一)
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