文の京(ふみのみやこ)に、学術書とこだわりの古書屋。
トップページ « 読みもの / 文京支部員列伝 / 第一回:「弘文荘(文京区西片) 反町茂雄氏(明治34年~平成3年)」~一隅を照らす~
明治時代から古書.専門書を中心に営業をしております我が文京支部では、古書業界外にも名が知られた著名な古書店主を多数輩出致しました。こちらではその諸先輩方の人生を振り返りたいと思います。
昭和2年帝大を卒業後、大卒者(特に帝大生)としては当時では考えられなかった古書店の住み込み店員として神田神保町の一誠堂書店に入店。短期間で実質的な支配人となる。昭和3年に、天理教の中山正善氏が一誠堂書店に初来店。独立後も同氏が亡くなるまで、公私共に交際が続く。
昭和4年「九条家本売り立て会」が開催される。その盛況さから古典籍の重要性を認識し、この事が氏の業者としての大きな転機となった。この他にも同年には勉強会「一誠堂玉屑会」を創設する。
昭和7年に現在の文京区の東大正門近くで独立。「一、借金はすまい。二、人は雇うまい。三、安い本.平凡な本は扱うまい」を主義とし、90歳で亡くなるまで一貫して現在の文京区内で無店舗.目録(カタログ)販売を貫く。(当初は出版事業も併せて行う。)11月12日、太刀川ちゆ(結婚後つゆ子と改名。)と結婚。翌年古典籍を中心とした自家目録『弘文荘待賈古書目』創刊号を発行。目録の題名の由来は、氏が敬慕していた幕末の古書業者「達磨屋五一」の屋号「待賈堂」に基づく。目録の質の高さから天理教の中山正善氏や、安田善次郎氏などの旧財閥などの大コレクターの顧客に恵まれる。以後、自家目録『弘文荘待賈古書目』では納品後に国宝.重文となる品を多数掲載する事になる。
営業の傍ら、昭和9年に古書業界の古老からの聞き語り『紙魚の昔がたり』を取材、発行。同書は戦後に改訂版(及び続編)が出され、明治から戦前の貴重な古書業界の数少ない記録として読み継がれている。
昭和15年頃から古書組合役員の仕事として組合組織の改変、「古書籍基準価格表」の作成に当たる。同17年より組合副理事長となってからは、当時私営であった42もの古書交換会(業者市)を古書組合直営とする非常に困難な統合作業に従事。(古物.骨董の業者市場は私営による物が多い中、古書組合では現在も直轄経営で運営。)
昭和20年には貴重な古書.古典籍を戦火から守る為に東京都の資金で買い上げ、終戦まで疎開、保管(終戦後は日比谷図書館への収蔵を計画。)するプロジェクト「戦時特別図書買上げ事業」に日比谷図書館館長中田邦造氏と共に尽力する。
敗戦後の財閥解体や旧円から新円への切替、預金封鎖などにより買い手の多くが売り手に180度変わり、一時的な危機を迎えるが戦時中に買い求めておいた東京、神奈川などの不動産を現金化するなどにより危機を乗り越える。(近隣の本郷が空襲の被害を受けたが、西片の自宅を含め、全ての家屋が空襲を免れる。)
終戦後しばらくは日本人の価値観が一転し、洋本(洋書では無く洋装本。所謂普通の製本の本。但し、米兵とのコミュニケーションの為に英会話の本なども当時良く売れる)が非常に売れ、古典籍が省みられなかった時代に旧華族、寺社などの旧家などから大量に放出された古典籍を精力的に集め、終戦後鉄道での移動や宿泊先での食料の調達が難しい時代に、関西方面にも積極的に仕入れに出向く。
昭和22年、森銑三と偶然に再会。氏が職についていなかったことから、弘文荘で文書、写本の解読、解題等の仕事に就いてもらう。
昭和23年には戦中、戦後の紙不足などの理由から中断していた『弘文荘待賈古書目』第十六号を復刊。昭和25年に他店の者を教育する事は有り得ない古書業界で若手を中心とした古典籍、古書業者の勉強会「文車の会(ふぐるまのかい)」を設立。以後反町氏が亡くなるまで継続し、多数の業者を無償で教育する。
敗戦から7年後の昭和27年頃からようやく景気回復の兆しを見せるが、その分旧華族や寺社、旧財閥などが古典籍の放出を行う必要性が少なくなり、良質の古典籍の放出は終戦直後に比べ減り始める。
昭和35年、ニューヨークの著名な愛書家ハイド夫妻来日。ちなみにこの時から弘文荘が収めたハイド.コレクションの良質の古典籍は後年オークションにより、かなりの数が反町氏の手により日本へ里帰りする事になる。昭和38~39年には東京古書組合理事を務める。昭和39年妻つゆ子死去。
海外旅行自由化の翌年の昭和40年には36日間の初の海外旅行。ニューヨーク、ボストン、ワシントン、ロンドンへ研修旅行を行う。以後、頻繁に海外への研修旅行を行う。昭和41年に佐藤八重と再婚。
昭和50年、会員の目録製作の勉強も兼ねた「文車の会」機関誌『ふぐるまブレティン』創刊。昭和52年、この年に「文車の会」に若手業者が大量入会。反町会長自宅での「文車の会」勉強会の分科会が会員の希望により多数設立され、以後亡くなるまで続けられる。『弘文荘待賈古書目 弘文荘善本目録』第五十号を最終巻として刊行。
昭和52年12月、夫人と共に、ニューヨーク・パブリック・ライブラリー『スペンサー・コレクション蔵 日本絵入本及絵本目録』増訂再版編集取材のためにニューヨークへ。翌年に自費で刊行。昭和54年にも同氏と共に『チェスター・ビーティー・ライブラリー蔵 日本絵入本及絵本目録』作成の為にアイルランド取材旅行を敢行。
昭和55年『天理図書館の善本稀書』(八木書店)を出版。昭和57年、創業五十周年記念目録『弘文荘敬愛書図録』刊行。『目の眼』(里文出版) で9月から自伝「一古書肆の思い出」連載開始。7月から8月にかけて「文車の会第二回ヨーロッパ研修旅行」を行う。(翌年その記録が『古本屋の見たヨーロッパ・本の旅・歴史の旅』(八木書店)として会員の手により編集.出版される。)
昭和59年『弘文荘敬愛書図録II』刊行。(刊行を行った理由の一因に「一古書肆の思い出」連載を機に、良質の古典籍が集まった事も多い。)同図録掲載品、為家本『土左日記』(売価7500万円)が各紙で報道される。昭和61年、自伝『一古書肆の思い出』第1巻(平凡社)刊行。
昭和63年、クリスティーズ(ニューヨーク)で開催されたハイド.コレクションのオークションでは氏が以前納めた古典籍を、出品された品の半分以上を落札。(約三億円)平成元年、帝国ホテルにて米寿を祝う「反町さんの米寿を祝う会」が開催される。
平成三年、1月14日「第七回東京都文化賞」受賞。(他の受賞者には白州正子氏、黒柳徹子氏など)常に古書業界全体の向上を考えて生きた、氏の悲願が世の中に示された出来事であった。
同年4月頃まで仕事を続けるが9月4日入院中の虎ノ門病院で容態が急変し永眠。90歳で亡くなる直前まで生涯現役であった最後の氏の言葉は八重子夫人への「疲れたから眠りますよ。起さないでほしい」であった。
反町氏の海外の図書館などへの、貴重な古典籍の販売や寄付を日本の財産の海外流出と捉える声も有ったが、海外の日本文化の研究の熱心さが国内よりも優れていた事を強く認識し、信念に基づいた行動であった。
そして常に自らの営業活動だけでは無く、他店の者を教育する事は有り得ない古書業界で若手を無償で教育するなど、常に業界全体の向上を意識し、また業界の将来を考えていた古書肆であった。
氏の亡くなった後、未完となった『一古書肆の思い出』第5巻が絶筆となった原稿に過去の文章を加える形で最終巻として発刊された。
※ 現在は反町氏の死去に伴い、営業は行っておりません。
『弘文荘待賈古書目』全50冊と、続く5冊(日本の自筆本、日本の古文書、弘文荘敬愛書図録)の全姿(発行年代順)
反町茂雄編著書(左より発行年代順)他に『玉屑集』『蟻眉公子』『古活字版拾葉』『紙魚のなごり』全5冊などの零葉集がある。
「東京都文化賞授賞式(平成三年)写真」
向かって左から「安土堂書店 八木正自氏」「庄司浅水氏」「八勝堂書店 八木勝氏」「塩川利員氏」「弘文荘 反町茂雄氏」「(一人置いて)八木書店 八木壮一氏」「日本古書通信 八木福次郎氏」「玉英堂書店 斉藤孝夫氏」
(文中一部敬称略)
(執筆 文京支部員 古書Dejavu 宮部隼人)
参考資料
※ 「反町茂雄氏」、『弘文荘待賈古書目』、「反町茂雄編著書」写真、キャプション共に『弘文荘反町茂雄氏の人と仕事』文車の会会員(文車の会)より転載。
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