文の京(ふみのみやこ)に、学術書とこだわりの古書屋。
トップページ « 読みもの / 文京支部員列伝 / 第三回:文京支部古老座談会 前編
明治時代から古書.専門書を中心に営業をしております我が文京支部では、古書業界外にも名が知られた著名な古書店主を多数輩出致しました。こちらではその諸先輩方の人生を振り返りたいと思います。
昭和二十年の敗戦により焦土と化した日本の驚異的な復興の礎には、日本の学問の復興に人生を捧げた若い古書店主達の知られざる物語が有りました。今回は今まで語られる事の少なかった貴重な当時の秘話を文京支部の古老の方々に語って頂きました。
出席者
(年齢は平成19年7月当時)
司会
文京支部支部長 大山堂書店 青木成二氏
(平成19年 7月12日 東京古書会館役員室にて収録)
青木 今年は、昭和二十二年に新しい組合法が施行されて、東京古書組合文京支部も六十周年を迎えました。この節目に当たり支部の歴史を振り返ることは、意義のあることと思います。
本日は、四人の文京支部重鎮の方々に、ご出席いただき思い出話を大いに語っていただきたいと思っております。終戦の苦難の時代から戦後の古書業界華やかなりし頃を中心に昭和四十年代、東大闘争あたりまででしょうか。よろしくお願いいたします。まずは、戦前に市(「いち」古書.古本の業者市場。築地市場等と同様、古書.古本も各都道府県で業者市場が行われている。自店向きの物では無い物などを持ち込み、それを別の古書店主が入札方式で競り、落札する。文庫やコミック等の通常の古本は一冊単位では無く、数十冊~百冊単位で取引されるが高額な古書は数冊若しくは一冊単位で取引される。運営者.出品者.購入者共に古書店主で有り、「全国古書籍商組合連合会」加盟組合の組合員以外の出入りは行えない。今日の東京古書会館では平日は毎日開催されている。「市場(いちば、しじょう)」「市会(いちかい)」「交換会」とも呼ばれる。)があったようですが、その辺のところを杉原さん……。
[座談会で取上げられている頃の、業者市の東京資料会の様子。手前に置かれている本が複数冊単位で競られ、奥に置かれている本が一冊単位で競られる。どちらも最低入札価格は同じ価格。](昭和49年撮影 『東京古書組合五十年史』収録)
杉原 私はその頃、巌松堂の関西の店におりまして、そこをやめて独立し、文京支部員になったのが昭和二十六年ですから、その頃のことはねえ・・・。
金澤 私も戦前のことは耳にした程度ですが。志久本(しくもと)という市があったらしいですね。資料的なものとか相当品物が出て活発な市を展開したという話を聞いております。
柴屋 昔の業界のことはよく分かりませんが、志久本の市は、戦後みなさんと話をするなかで聞いたことがあります。金澤さんも実際にはご存じないのですから、私はとうていわからないですけど。
斎藤 私は昭和八年生まれ。戦前はまだ子どもですが、街の風景は結構覚えています。本郷三丁目に明治製菓があったとか、本屋のことはどこそこのおじさんだというようなことで覚えています。
志久本の市というのはあったんですね。親父もその市で買ってきたらしく、食事の後、私や姉に買ってきたものを見せるんですね。そのときの話に志久本の市が出てきた記憶があります。場所は今の日本信販(文京区本郷3-33-5)の裏の方ではないですかね。貸し席でしたよね。
柴屋 戦後になって、私の家に支部の市の始まりみたいなものがあったと聞いているんですけど。私の家は三軒長屋で、裏隣りの家とは壁ひとえでくっついているような家なんです。戦争末期には、消防が江戸時代の消防みたいで、破壊消防というんですか、住んでいない家は取り壊して、火よけにしようとするんですよね。それで、空いている家に住んでくれないかということで、うちは家族も多いし狭いしというので、重宝につかわせてもらった家が裏隣にあったんです。その一階は板敷きで、洋裁屋さんが使っていて、大きな裁ち台がありました。戦争が押し詰まってくるにしたがって闇の物資の置き場になっていたこともあって裁ち台が物を広げて載せるのに都合がいいんですよ。戦後は古本屋さんのたまり場みたいになって、みんなで、将棋をさしたりしていたんです。それを、ほんのわずかな期間ですが、本屋の市場に使っていたという経緯があります。
青木 それは昭和二〇年ぐらいですね。
柴屋 そうですね。終戦直後のことです。玉音放送を私はそこで聴きましたから。柏林社の古屋さんの息子さん(幸雄さん)たちがよく来て将棋なんかをさしていたことを覚えています。
それで、しばらくして、本郷通りの空いている家が市場になったと。
斎藤 昭和二十二年、本郷通りに出てきて、警察の許可もとって、二、六の日に市を開催したと、組合の六十年史にあります。このときの支部員は百五名。
金澤・杉原・青木 結構多いですね。
斎藤 ここには有名な本屋さんが意外といるんですよ。文求堂(田中敬太郎)さんをはじめとして、弘文荘(反町茂雄)さんはもちろん、玉英堂(斎藤英)さん、森江(淳文)さん、南陽堂(楠林)さん,文雅堂の(江田勇二)さん、柏林社(古屋幸太郎)さん、井上書店(井上周一郎)さん、木内書店(木内誠)さんもいらしていたから、和本屋(「わほんや」古典籍、和本を中心に扱う古書業者を業界内で指す言葉。)としては随分そろっていますね。
金澤 私は昭和二十年に復員(金澤氏は昭和十三年一月、陸軍に召集され満州国に出征し、済州島で終戦を迎えられた。)して、月のうち一週間ぐらい、今泉亮一(今泉書店)さんのところに厄介になったことがあります。今泉さんのところには米がなかったので、私は農家の生まれだから米を担いできてね。
文京支部の交換会をしようというのは平井泰夫さん、稔さん兄弟(稔書房.平井書房)が、今泉さんのところに来て話していました。昭和二十二年の夏ごろです。柴屋の親父さんも会計をやってもらった。井上さんも振り(「ふり」市への参加者が声を上げて競り落とす方式の市。所謂セリ方式。「振り市(ふりいち)」の略)をやっていたと思うな。小沼(文生書院)さんも関係していたと思うけど、主には平井兄弟がやってくれたんですよ。
杉原 市はどこに?
金澤 東大の正門前の文信堂(文具店)の一階。
斎藤 文房具屋さんのね。
金澤 そうです。ずいぶん大きな場所ですした。人はよく集まりましたが品物はなかったですけどね。
斎藤 それでも間口は二間(「にけん」約360cm。)ぐらいでしょ。
金澤 そうねえ、もう少し大きかったのじゃないかな。
柴屋 あそこはもともと大光堂という本屋がありまして、柴主さんといったんですよ。奥さんの加減が悪くなって越していかれて。柴主という名前がうちとよく似ているので覚えているんですよ。そこが文信堂さんになっているところで、市が開かれていたんです。
金澤 さっき二、六といったけど、一、六の日に市が開かれたと思いますよ。
杉原 二、七が一新会(「いっしんかい」現在でも木曜日に行われている東京古書組合の本部の神田の市。神田支部の支部市的な会でも有る。)だったと思いますね。支部市(「しぶいち」東京古書組合では本部の神田の古書会館の市の他にも週に1.2回北部.東部.南部.西部の各支部会館で支部市が行われている。現在は行われていないが、当時は文京支部でも支部市が行われていた。支部市では現在も主に「振り」方式が主流。)のあくる日が一新会だったと思う。
金澤 そうそう、一、六とか二、七という言い方をしましたね。
杉原 土曜、日曜も祭日もないんだ。その日に当たれば市がありましたから。
斎藤 そうでしたね。曜日になったのはずっと後でしたから。
青木 本はどんなものが出たのですか。
金澤 本ね、医学書が多く、哲学書ね。井上さん、高橋(慶応書房)さん、神田からは平尾(明倫館)さん、源喜堂さん、魚住(特価本屋)さんが来ていました。和本はそれほど出なかったね。だいたい一般書ですよ。品物が少ない時代でしたからね。今のように何でも出る時代ではなかった。それで売れるのは決まっていてね。美濃部達吉『憲法撮要』『行政法撮要』我妻栄『民法講義』とか。
杉原 美濃部達吉さんのはそれまで発禁本が多かったから。『憲法撮要』とか。売れるのは決まっていた。
金澤 売れるのは決まっていたから、市で出ても我々は買わせてもらえない。前に座っている人がさっと買ってね。
杉原 今のように入札(「にゅうさつ」古本の束に付けられた封筒に業者が入札価格を書き込んだ用紙を入れ、最も高い値を書き込んだ業者が落札する仕組。現在の神田の市は「振り」では無くこの方式のみ。)ではなく、振りですから。振り手(「ふりて」振りの際、お客の古書店主の発声する値段を聞きながら、実際に本の競りを行う係。)にもクセがあってね。声が聞こえる人聞こえない人がいる。私も一新会にも出ていましたが。巌南堂の西塚定一さんとか小宮山さんとかが落とすんですよ。
金澤 経済書では農業経済研究所を扱う人が多く、本郷では主に経済書、法律書、産業書。医学書も出ましたけれど、理工系等はそう強くなかった。
斎藤 本郷の市を持とう、支部市をやっていこうというのは、どういうわけで出てきたんですかね。神田にも市はあったわけでしょ。
杉原 各支部で市を持とうということだったからでしょうね。
斎藤 市の前の方に座る人はどんな方だったんですか。
金澤 平井兄弟、でも泰夫さんはそんなに買わなかったよね。井上さん、慶応書房(高橋)さん、そんなにいないんですよ。品物もそう多くないからね。
斎藤 法律書は誰が強かったの?
金澤 誰とはなしに、みんな扱ったんですよ。他に品物がないんだから、それに頼るしかない。
青木 市で買って、各お店で売るんですか。それとも目録?
金澤 その頃は目録がなかったからね。店売りが主だね。売れたんですよ。本郷通りでも、店に置いておけば。
斎藤 金澤さんは店を持つようになったのはいつですか。
金澤 三十歳ぐらいのときかな。昭和二十一年の七月か八月かな。葦張り(「よしずばり」。すだれを壁代わりにした物。)のマーケットというものを手に入れて、そこに棚を作って商売を始めたんです。露店に毛の生えたような場所ですよ。
青木 露店は?
金澤 露店は本郷三丁目本郷薬師様から東大赤門前の焼ビルの間に出来ました。
柴屋 赤門前の三階建てのビルのところで焼け止まったんですよ、戦災がね。そこから向こう、赤門から三丁目が焼けて何もなくなったんですから。そこに露店ができたんですよ。
青木 露店は古本屋さんだけでなく他の店もあったのですか。
金澤 他のものもありましたよ。飲み屋が多かったね。本郷通りの露店で一番最初は、終戦の年にね、富田さんという中央線支部(中野、杉並、吉祥寺などJR中央線沿線や町田市方面の業者が所属する。)の人だったんじゃない?
杉原 文庫屋でしょ。
金澤 そう。中央線の人で、毎日通ってきていたわけ。三丁目と赤門の中間ぐらいによしずを張って文庫を売っていたね。文庫もね、たくさん出すわけじゃないですよ。『ロシアにおける資本主義の発達』、あれを二冊だけ置いて、東大の学生に買わないかなんて言って売っていました。
次に出したのはサツマ書店の西正義さん。富田さんと西さんの奥さんの関係で、露店は売れるという話になったんだと思いますよ。その次は菊地賢作さん。彼は私の身内ですが、兄弟三人で大々的にやりましたよ。その三軒ぐらいじゃないかな。あとは平井泰夫さんのところにいた人がやらされていたかな。
青木 何年ぐらいまでやったのかな。
杉原 露店はそう長い期間ではないでしょ。
斎藤 昭和二十六年にマッカーサーによる禁止令が出ていますからね。
金澤 さっき言ったマーケットができたから、みんなマーケットに入っちゃったからね。
斎藤 マーケットというのはどういうものなんですか。
金澤 マーケットは本郷三丁目から赤門までを四十コマぐらいに区切ってよしず張りしてあったの。間口八尺(約240cm)、奥行き八尺ぐらいのもので、私なんかそこにベニヤ板をはって周りを囲って、そこに住んだんだから。
杉原 寝起きしたの。
金澤 寝起きしてはいけないところだったけど、住んだんだ。
斎藤 西さんとか浅沼さんとかの店がマーケット? 知っていますよ。
金澤 そう、マーケットですよ。西さんとは隣だったけどね。本当は住めないところを、住むところがないから、西さんも私も大工を入れて住めるようにして住んでおったんですよ。
杉原 大変な時代だったわけだね。
金澤 新橋の地元の実力者が統括してね。一コマ二千円。そのほかに場代として一日二十銭ぐらいだったかな、その娘の人が集金に来ていましたよ。
青木 売上げは?
金澤 人によって違うだろうけど、医学書がよく売れて、一日三千円か四千円は売れたでしょうね。
青木 じゃあ、やっていけるわけだ。
金澤 お金が入っても、当時はお金を使うことがないんですよ。煙草も買えないし、米も配給だったし。金を使うとしたら公共料金を払うぐらいでしょ。
当時は品物もないけれど、置けば売れたんですよ。お客は東大の学生と先生方ね。それから本郷にはみんな本を売りに来たんですよ。本を売るのは大きい店より小さい店の方が売りやすい。人間の心理ですかね。風呂敷に包んで持ってきたものを買い取りましたよ。マルクスの『資本論』などはよく売れました。
斎藤 神田の市にもって行って売ろうという考えは?
金澤 神田よりはここ本郷でよく売れたんじゃないですか。買ったものを店において売る。法律書、経済書、医学書が売れる。終戦当時は東大医学部の学生、先生方も入手が難しかったから医学書なんかは飛ぶように売れましたよ。
杉原 売れるものはある程度決まっていたでしょ。
金澤 そうなんですよ。大里の『診断学』。値段は高かったね。
杉原 外国のもので、ラーベルの『解剖学』。古版は真っ黒で新しいのは茶色でね。
金澤 そうそう。そういうものは店に置けば売れたんですよ。解剖のいいものはとても買えたものじゃなかった。医学書はサツマさんとうちと稔さんが買っていたな。売れるものは神田とか他でも買ってきて店に積むという状態だった。
柴屋 私はそういう時代、焼け野原にバラックの建物ができてきたころ、まだ子どもでしたから、学校帰りに駄菓子屋さんに寄って甘いものを買っていたという記憶があります。
青木 戦後は社会も経済も大混乱。そういうときにご苦労されたわけですね。
斎藤 柴屋さんは終戦のころは子どもだったということですが、本屋に首を突っ込むようになったのはいつ?
柴屋 私が首を突っ込んだのはよほど遅いですよ。
斎藤 お父さんがいらしたからね。
柴屋 親父に大事にされすぎちゃって。それもあるけれど、自分自身やる気もなかったんですよ。親父がやっているものは売れないものだというのがあって、やってもしようがないやなんて。
杉原 それでも柴善さんという名前は有名だったね。今は医学書しかやらないみたいだけれど、昔は他のもやっていたんだよね。
柴屋 一般書もやっていました。自然科学分野だけではなくて、アララギとかホトトギスだって扱っていたんですよ。
金澤 柴屋さんといえばね、さっきも話が出たけど、古本屋のたまり場でね、ずいぶん人が集まったんですよ。
斎藤 年表で見ますとね、昭和二十三年に新制大学の認可が下り、大学の新設・拡大ブームが起こるんですよ。意外と早いですね。その恩恵は受けていますか。
金澤 医学の大学を設置するというので、屑物(「くずもの」ほとんど値段が付かない古本の事。また廃棄する本は「ツブシ」と呼ばれる)も一冊いくらで買うからというのがありました。神田の高山さん(高山本店)などは医学書をあつかっていましたからね、何でもいいから買うと言って来ましたね。
斎藤 設置基準に蔵書を何万冊と決められているわけですから・・・、いい時代ですよね。
金澤 そういう恩恵はありました。だけど、我々のところには数が多くあるわけではないから。買って戴くと申しても、ろくな商売にはなりませんでした。
青木 そのころ杉原さんは?
杉原 昭和二十三年でしょ、僕はまだ巌松堂の店にいましたからね。地方の短大や専門学校、高専なんかは大学に昇格したいけれど、本がなければ認可が下りないんですよ。一つ例を挙げるとね。そういう学校から五、六人がやってきて、当時お札というと、まだ千円札なんかない、百円札なんですよ、その札束を大きなカバンにぎっしり詰めて、会計係というか金庫番が持ってくるんですよ。そしてそれを警備する警官みたいな人がついてきてね。それで巌松堂の店の二階から三階までずっと見て、バタバタ本を抜いて現金で払っていくんですよ。私立の学校だったと思いますね。国立では現金で支払いなどということはありませんからね。(公費購入は通常は数ヵ月後や年度末など、期間をおいての後払い)そういうことがありました。
斎藤 そういうことが十年ぐらい続くんですね。
杉原 そうなんですね。百円札の束を持ってくるということは、十年も続かないでしょうけどね。
青木 古典籍はどうでした?
斎藤 和本屋は、私のところもそうですが、商売柄あまり地元を大事にするという感じではなくて……。でも井上さんは特別で地元に尽くされましたし、古屋さんのお父さんも支部に尽力されましたけど。
青木 古典会系と資料会系、洋書会系(「こてんかい」「しりょうかい」「ようしょかい」東京古書組合の本部の市。「古典籍」「学術資料」「洋書」を扱う。現在でもそれぞれ火.水.火曜に神田の古書会館で行われている。その他に「中央市会(ちゅうおういちかい)月曜開催」「明治古典会(めいじこてんかい)金曜開催」も開催されている。この場合の「~系」はそれぞれの会員の古書店主達を指す。)と、その頃からだんだんと色分けができてきたんでしょうね。
金澤 そうだね。本郷は古典会系が強かったんですよ。井上さん、木内さん、山形さん、反町さん。
杉原 江田さんもいたしね。
金澤 有力な人がいた。バックナンバーとしては塚田(塚田書店)さんがずいぶん売った。ナウカ(旧ソ連関連の図書を中心に取り扱いをしている神田の輸入商社。)を通じて大きなものを売っていました。バックナンバーの一番いいときです。中国にも輸出していましたから。
斎藤 中国というより東欧にね。アメリカにもずいぶん売っていたんですよ。
杉原 でも中国で売れたのはそう長いことではないよね。
金澤 柴屋さんもやったのでは?
柴屋 うちはそういう商売には不熱心だったから、あまり影響ないんですよ。僕の知っている限りでは、新制大学についても後期になってから。昭和三十~四十年頃、学部の新設がありまして、医学部とか、それで息をついたということがあった。
斎藤 金澤さんが社会科学という専門店に特化したのはその辺からですか。
金澤 医学書が全然売れなくなったときがあったんですね。昭和三十五年ごろかな。そのころ、成川さん(伸松堂)や杉原さんは目録を活発に出しておった。私は店が売れたから目録を出すのは遅かった。
杉原 僕が目録を出し始めたのは昭和三十年頃からかな。金澤さんは僕より遅かったね。
金澤 遅いですよ。昭和三十五年頃から出し始めたのかな。それから展覧会(「てんらんかい」古書.古本の一般のお客様向けへの即売会。展覧会と呼ぶ場合はデパートで行われるデパート展などに対して主に古書会館で行われる即売会を指す事が多い。東京古書会館では金.土曜日に、ほぼ毎週開催されている。「愛書会(あいしょかい)」「書窓会(しょそうかい)」は展覧会の一つ。現在も開催中。)をやったね。
杉原 やりましたね。今ある愛書会や書窓会ですよ。木内誠さんと民夫さんと。
青木 うちもね。
杉原 そう、大山堂さんもね。
金澤 だから目録を出さなくとも結構忙しかったんですよ。
杉原 展覧会は何年ぐらい続いたかな。金澤さんは遅くまでやっていたね。僕と慶應書房が先にやめたのか。
金澤 なかなか抜けられなかったんだよね。それで、店が売れなくなって困ったなと思ったとき、社史が発行される時代になった。社史を扱うと不思議に売れたんですよ、今と違って。
杉原 それは一つには経営学部というのができたでしょ。その影響なんですよ。
金澤 何社分とか一括して買う人が多かったですよ。関西方面の大学からずいぶん注文があった。目録に出すとよく売れるんですよ。でも、品物がそう多くなかったな。
(後編に続く)
国民が娯楽に飢えていた焼け跡の時代、カストリ雑誌などの粗悪な作りの雑誌や本でも良く売れた戦後の混乱期に「日本の復興の為にも学生さん達に勉強してもらわなければいけない」との信念から敢えて東大関係者も入手が難しかった学術書だけを仕入れ続け、マーケットのベニヤ貼りの店に寝泊りしながら東大生達に提供し続ける金澤青年の店はまるで焼け跡に開かれたもう一つの大学を思わせる感動的なお話でした。後編は杉原書店さんの開業当時のお話や昭和30年代頃の業者市のお話などを中心に語って頂きます。
(東京古書組合機関誌『古書月報』第425号「文京支部古老座談会」を一部加筆修正し掲載致しました。)
[ホームページ掲載に際しての監修 文京支部支部長 大山堂書店 青木成二]
*本文に登場した古書店は、店主の死去等に伴い現在では営業を行っていない店舗もございますのでご注意下さい。
掲載写真は全て使用許可を得て掲載しておりますので、無断転載はお断りいたします。
Copyright (C) 東京都古書籍商業協同組合文京支部. All rights reserved.
Design by DIAGRAPH