文京の古本屋

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文の京(ふみのみやこ)に、学術書とこだわりの古書屋。

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明治時代から古書.専門書を中心に営業をしております我が文京支部では、古書業界外にも名が知られた著名な古書店主を多数輩出致しました。こちらではその諸先輩方の人生を振り返りたいと思います。

第五回:棚澤書店 棚沢孝一氏(文京区本郷六丁目)

棚沢氏近景

棚沢氏は大正15年埼玉県熊谷市で7人兄弟の末弟として生まれ、昭和23年同じ熊谷出身の先代棚沢勝蔵氏の次女と結婚され、棚澤書店の2代目店主として古書業界入りをされました。81歳(平成20年現在)になられた現在でも日曜日以外は半日は帳場に立ち、古書会館(神保町)の市(「いち」入札やセリによる古書の業者市)に現在でも行かれている現役店主の中では文京支部内では最長老になられます。また、過去には東京都古書籍商業協同組合の本部理事も勤められ、文京支部のみならず東京古書組合の発展にも長年尽くされてきました。明治中期に建てられた歴史のあるお店は平成14年「国登録有形文化財」に指定された事から、様々なガイドブックや雑誌やテレビ、ホームページなどに取上げられ、棚沢氏のお人柄もありそれらを読まれた古書愛好家の方以外の方も毎週のように訪れる本郷六丁目の重要な文化財でもあります。今日も元気に帳場に立たれていらっしゃる棚沢さんのお店にお伺いして、お話をお聞かせ頂きました。

聞き手 「棚沢さんは熊谷のご出身との事ですが、八月十四日深夜から八月十五日未明の『熊谷大空襲』の時も熊谷にいらっしゃいましたでしょうか。」

棚沢氏 「私は熊谷大空襲の時は徴用されておりました熊谷の軍需工場におりました。皆で避難している内に『戦争が終わった。』と言う感じでした。また、20年3月の東京大空襲の時は熊谷からも真っ赤な空が見えました。」

聞き手 「歴史の古い棚澤書店さんですが、故人の方で著名な作家のお客様はいらっしゃいましたでしょうか。」

棚沢氏 「作家の中野重治先生、木下順二先生、宇野浩二先生などが父の代からのお客様でした。中野先生の『むらぎも』木下先生の『本郷』には父の話が出てきます。中野先生は帝大生時代に仕送りの小切手が土曜日は郵便局が休みの為換金できないので、私の店に持ち込み父が換金して差し上げた話が『むらぎも』に書かれております。また、角川書店の社員のカメラマンだった斉藤勝久さんと言う方が出された『現代の文人 斉藤勝久写真集』と言う写真集に私達が今座っている帳場に、練炭ストーブを挟んで中野先生と父が談笑する写真を載せて頂いております。昭和38年に取られた写真ですが、今も店の様子は全く変わりません。宇野先生はいつも和服、冬はコートに中高のソフト帽姿で師弟関係に有られた若き日の水上勉先生を連れてよく店の方に訪れ文学関係の古書をお買い求め頂きましたが、近所の銭湯でもよくお会いしたものです。」

聞き手 「棚沢さんが業界に入られた頃はまだ、本郷にも露天の古書店は存在していましたか。」

棚沢氏 「私が業界に入った頃は既に本郷の露天の古書店はございませんでしたが、昭和30年頃までは駿河台(神保町)の古書会館に向かう途中の杏雲堂病院や元主婦の友ビル辺りにはまだ出ておりました。」

聞き手 「80歳を越えられて古書会館(神保町)の市に通われている古書店主の方はさすがに少数ですが、現在は週に何回通われていますか。」

棚沢氏 「大体月曜の『中央市会(主に一般書中心の市)』水曜の『資料会(学術書中心の市)』の方に週に二回程バスで通っております。」([注]この他にも年に数回古書会館で開催される「大市(おおいち)」と呼ばれる非常に大規模な市にも棚沢氏は欠かさず出席されている。事前に業者に郵送される出品目録(カタログ)を手に真剣に古書を吟味して入札されるお姿は非常に印象的です。)

聞き手 「棚沢さんはお若い頃は遠い所ではリヤカーで調布市の他、練馬区の江古田に至っては一日に2往復もの宅買い(出張買取)もなさったとの事ですが、仕入れは宅買いと市のどちらが多かったのでしょうか。」

棚沢氏 「宅買いの方がおおございました。その頃オート三輪を使った運送屋さんもありましたが、使わせて頂くのは年に一回程度でもっぱらリヤカーに自転車を繋いだ物で古本を運びました。文京区は坂が大変多いので、少しでも坂の少ない道を探したりしましたが、なかなか都合よくはございませんでした。昭和34年には免許を取り、湯島のオートバイ屋さんから8万円(現在の貨幣価値で100万円程度。)の中古のスクーターを月賦で手に入れ大分活用しました。」

『定積分表(ビラン.ドゥ.アーン著 岩波書店発行)』

昭和30年頃、府中で買取を行った中に含まれていた『定積分表(ビラン.ドゥ.アーン著 岩波書店発行)』。市に出した所、当時のサラリーマンの月給の半分程度5000円で売れて驚かれたとの事です。(注 写真の物は当時買い取った物とは別の物です。)

聞き手 「『文京支部古老座談会』によると、昔は神田で開催されている本部の市は当時は文京支部の若い業者には敷居が高かったと語られていますがやはりそうだったのでしょうか。」(*「文京支部員列伝 第3~4回」参照)

棚沢氏 「当時の神田の市は若い私達には、それは敷居の高いものでした。神田の業者の方達の後ろの座布団の無い畳敷きの所にも座りにくく、中腰で見たりしていましたが、なかなか買えるものではございませんでした。市と言えばもっぱら文京支部で開催していた市『赤門会』に参加しておりました。」

聞き手 「昭和30年代頃の『赤門会』の思い出をお聞かせ下さい。」

棚沢氏 「1、6の日に大体朝の9時30分から午前11時頃まで開催されておりました。その頃の市は一部の良い物を除けば、現在の様に置き(「おき」入札形式の業者市。古書、古本の価値により一冊~数百冊単位で陳列された出品物に付けられた封筒に希望価格を入れた用紙を入れ、最も高い値段を書いた業者が落札できる。「置き入札」の略。)では無くフリ(「ふり」市への参加者が声を上げて競り落とす方式の市。所謂セリ方式。)でしたので、神保町の市はもちろん、赤門会も座布団の座る席は大体決められておりました。その頃私のような若い業者はとても座れず、もっぱら後ろに立っておりました。初めの頃、古い業者の方がお手洗いに立たれた時に座布団に座ってしまいましたが、肩をトントンと叩かれただけで緊張したものです。稔書房さんや塚田書店さんなどが振り手(「ふりて」振りの際、お客の古書店主の発声する値段を聞きながら、実際に本の競りを行う係。)を勤めましたが、フリの良い所は入札と違い振り手が『美濃部(達吉)さんの本はこれが高いんだよ。』などと本の価値をフリながら教えてくれた所でしょうか。業界入りしたまだ古書の価値が全く分からない頃、古い業者の方に高い本が落ちると『恐れ入りますが...』と恐る恐る見せて頂いたものです。」

聞き手 「棚沢さんが赤門会で座布団に座る事が出来る様になったのはいつごろでしょうか。」

棚沢氏 「業界入りして10年くらいで支部役員を勤めるようになってから、ようやく座布団に座れるようになりました。また、置きも現在のように入札用紙や封筒が有る訳ではなく(現在の東京の市では黄色いメモ用紙の束が入札用紙として業者に配られる。)要らない本を破って入札価格を書き込んで折り、振り手に投げる形でした。その頃は山帳(「やまちょう」フリの際、取引記録を売買伝票に記録していく係。)も、ちゃぶ台の上で書いていたものです。井上書店さん、琳琅閣さん、大山堂さん、文生書院さん、泰雲堂書店さん、杉原書店さん、木村書店さん、大亜堂さん、柴善書店さんなど大勢の文京支部の方が参加されていましたが、大市の時(支部の市では通常、年に一回開かれる。)などは現在はやめられましたが、小石川の池書店さんなどは色々な方に働きかけてたくさんの荷物を出してくれました。またこの方は市場にはあまり来ませんでしたが、東大農学部前に昭和書院さん(磯部さん)と言う方が戦前から昭和30年代頃まで営業をされておりました。この方は当時高価で珍しかったタイプライターを使われるような方でした。ちなみに、本部のフリ市の方は朝の8時頃から夕方5時頃まで開かれており、一杯やる頃までには終わったものです。

聞き手 「やはりその頃は赤門会でもきれいなヤリ(「やり」フリで他の業者が例えば「一万円」と声を出した場合、「一万二千円」などと、より高く声を出す行為。)を突けないと周りから注意されたものなのでしょうか。」

棚沢氏 「それはございました。稔書房さんが振り手を行っていた時、駆け出しの若い業者の方があまりに細かいヤリを突いていると、平井さんが『あんた、次は中座が(発声を)取ってくれないよ。』(*「なかざ」この場合は“振り手”などの係り達の事を指す。)と注意された事を覚えております。逆にこれは本部の市の話になりますが、既に亡くなられました、神田のとある古書店主の方のヤリは、それは見事なパリッとしたヤリでして、思わず振り手も呆気に取られた程です。また、その頃は出直り(「でなおり」フリの開催中、瑕疵が見つかった場合など、例えば自分が5000円で落とした場合「出直り3000円」などと発声し中座へ投げて本を戻し、競り直してもらう事。その際自分では3000円以上は発声できず、他の業者がそれよりも高い発声を行わなかった場合は3000円で買う事が出来る。)もあまりございませんでした。今は入札制ですので10円単位で入れられますが(但し、市により最低入札価格は決められている。)あまり細かく入札せず、本当は入札も綺麗なヤリで買うべきなのかもしれません。」

聞き手 「赤門会がフリから現在主流の置き入札になった頃の事をお聞かせ下さい。」

棚沢氏 「昭和38年塚田書店さんや稔書房さんのお二人の尽力により置き入札制を導入しました。反対派の方達もいらっしゃいましたが、置き入札は全ての業者に対して平等なので導入した事は良かったと思います。」

聞き手 「赤門会を行っていた道具市場(異業種の古物商の組織が交代で市を開くなどの目的で使用していた施設。)は骨董屋さんや道具屋さんの方達が主に使われていた(*「文京支部員列伝 第3~4回」参照)との事ですが、彼らが古書を集めて古書店向けの市を開く事などは有ったのでしょうか。」

棚沢氏 「赤門会を開いていた本富士や湯島などの道具市場では、それはあまりありませんでした。古書を仕入れた場合は相対の取引で古書店と取引されていたようです。道具の市は荷物を引き取りに入った時などついでに覗いたことはございましたが、私を含めて古本屋が本格的に参加する事は少なく道具市場では異業種の古物商同士としての横の繋がりは、ほとんどございませんでした。また市の仕組みについても道具や骨董の市はセリの際、発声をする時に特殊な符丁を使う事があるようですが、私の知る限りでは昔から古本屋のフリは普通に「○円」と発声し、符丁を使っていた記憶はございません。その頃道具屋さんは例えば近くの秋葉原からトランジスタラジオが大量に出てくる事などがございますと、それだけでかなりまとまった金額になるわけです。古書は特別なものを除けば、どうしても一冊の単価が低いのでそのうち古本屋は道具市場を出る事になり、神保町の前古書会館で月2回赤門会を開く事になりました。」

聞き手 「赤門会で楽しかった思い出がございましたらお聞かせ下さい。」

棚沢氏 「赤門会が終わった後は他の業者の皆さんと近くの喫茶店でお茶を飲んだりしたものですが昭和32年の事でしたか、赤門会が終わった後に金子書店さん、木村書店さん、木内書店さん達といつもの様にお茶を飲みながらまだ白黒だったテレビを見ておりましたが、その頃日本中が注目していた南極観測船『宗谷』が氷に閉じ込められているニュースを見て金子書店さんが、自力で脱出できない様子を見ながら『あー、だめか。』と言われた事などを覚えております。その他には赤門会がお寺の境内の建物を借りていた頃は、桜の季節になると市が終わった後、誰かが一升瓶を持ってきてコップ酒でそのまま花見をしたものです。」

聞き手 「昭和30年代頃の文京支部の市以外の支部活動の思い出をお聞かせ下さい。」

棚沢氏 「昔は年に一回くらいは熱海や那須、伊豆への慰安旅行や観光バスで奥多摩のダムや千葉へ潮干狩りに百人くらい家族ぐるみで行ったものです。レクリエーションと呼びましたが、私の娘や今の理事長(文生書院 小沼東京都古書籍商業協同組合理事長)達も小学生の頃一緒に潮干狩りに行きました。」

聞き手 「棚沢さんの親しかった文京支部員の方との交際についてお聞かせ下さい。」

棚沢氏 「ペリカン書房の品川力さん(「文京支部員列伝 第2回参照」)とは、私が業界入りした頃から兄弟の様にお付き合いさせて頂きましたが、大変真面目な方でした。品川さんが80歳頃、私が60代頃の事でしたか。とある教授の蔵書の買取をノリ(同業者との共同買取)で行わせて頂くため、私の運転で大学に向かいましたが、実は私はその時品川さんに苦言を申し上げたのです。私が駐車場に車を入れて戻ってくると既に教授の若いお弟子さん達と一緒に品川さんが3階から階段を段ボール箱を抱えて降りてくるじゃありませんか。私はさすがに『品川さんこれじゃ、私のような若い者への面当てですよ。先生とも久しぶりなのですから、お部屋でお話をされていたら如何ですか。』と品川さんへ申し上げあげました。その品川さんも平成18年11月に102歳で亡くなられましたが、その半年ほど前ヘルパーさんに車椅子を押されながら私の店の入り口までこられ、古書を撫でながら『ああ、この先生はこんな本も出していたんだなぁ。』と語られた姿は忘れられません。」

聞き手 「本日はお忙しい中、貴重なお話をお聞かせ頂きありがとうございました。」

(平成20年10月30日 棚澤書店にて収録)

(聞き手 文京支部員 古書Dejavu 宮部隼人)

[棚澤書店 営業案内]
所在地:113-0033 文京区本郷6-18-12
電話FAX番号:03-3811-0341
営業時間:月曜日~金曜日 12:00~18:00
休日:日曜日・祝日 土曜日は不定休

*本文に登場した古書店は、現在では営業を行っていない店舗も一部ございますのでご注意下さい。また現在でも営業されている店舗の方も基本的に登場した古書店主は棚沢氏の他、一部を除き先代.先々代の方達になります。

参考資料

  • 『日本古書通信 2003年9月号「古本屋の話9 本郷東大前の古本屋として」 』 棚沢孝一.日本古書通信社
  • 『日本の文学41 中野重治(「むらぐも」収録)』中野重治.中央公論社
  • 『現代の文人 斉藤勝久写真集』 斉藤勝久.角川書店
  • 『東京古書組合五十年史』 東京都古書籍商業協同組合
  • 『慈愛だより「わが町探訪」』各号 棚沢孝一.慈愛病院

棚澤書店は先代棚沢勝蔵氏が明治38年上京、本郷にかつて存在した古書店「有終閣」にて修行後、大正9年現在の東大農学部前にて独立し棚澤書店を開業されました。その後昭和6年、明治の中頃に建てられ以前は洋品店として使われていた現在の店舗を借り支店を開業。本店が昭和16年に強制疎開命令を受けた事から支店を本店とし、現在に至ります。棚沢氏のお話によるとこの辺りは徳川四天王と呼ばれた本多忠勝公の末裔である本多子爵家の所有地でしたが、戦後財産税により本多家が土地を手放した事から購入されたとの事でした。

店舗写真

店舗写真

店舗写真

店舗写真

店舗写真

店舗写真

店舗写真

店舗写真

店舗写真

店舗写真

店舗写真

店舗写真

店舗写真

棚沢氏による店舗の解説をご覧下さい。

「家屋は東大正門前の本郷通りに面し、明治の棟梁が心を込めて作った木造二階建で、質素で堅牢な江戸商家様式を引継いだ、明治中期の商店建築です。」特色について下記いたします。

一.通常二階建ての家は大屋根の軒が短く、壁又は窓の上に桁を作り屋根を支えて居ります。ところが我が家の軒は約一メートルと長く出て居り、この為約四十センチの長さで十五センチの角材が外に出て、更にその上に「出し桁」が作られ屋根を支えているのが特徴です。長い軒は建物本体を風雨から護って居ります。
二.二階ベランダに手すりを回して居る事は当事洋風建築を取り入れた和洋折衷の姿です。
三.一、二階の天井の高さが低いのは、明治中期の庶民建築の特徴です。

『慈愛だより「わが町探訪 第一回」』(棚沢孝一.慈愛病院)より抜粋。

お隣の喫茶店は元は「新宿中村屋」創業の地。(株)中村屋様のホームページには本郷時代の当時の貴重な写真が掲載されております。(「会社案内」及び「中村屋の歩み」参照。)

レジスター写真

そろばん写真

愛用のソロバンと現在でも現役の当時非常に高価だった年代物のレジスター(ナショナル金銭登録機)。昭和38年当時7万6千円でご購入されたとの事ですが、現在の貨幣価値では100万円近い物と思われます。「少し前までは修理してくれましたが、現在は部品が無いとの事で壊れてしまったら終わりです。」との事。

包装紙写真

包装紙写真

包装紙写真

昭和6年~昭和16年頃に使われていた棚澤書店さんの包装紙で作られた英和辞書のケース。数年前に長野県の古書店主の方から贈られ、棚澤書店さんに里帰りした物。棚澤書店さんにも現存していなかった貴重な品です。

一部新刊書も取り扱われており、特に岩波文庫の品揃えは大型新刊書店並。神保町と違い、大型新刊書店の無い本郷古書店街では貴重な存在として現在も大学関係者や本郷の方達に貢献されています。

岩波文庫書棚写真

「先代が岩波書店の創業者、岩波茂雄氏に創業時大変お世話になりましたことから、岩波氏へのささやかなご恩返しのつもりで昭和2年に岩波文庫が創刊された時から、新刊で揃える様にしております。昭和6年にこの本棚が出来てから今まで、岩波文庫専用の棚として私も先代の意志を引継がせて頂いております。」

岩波文庫看板写真

昭和30年頃から使われてきた岩波文庫の販促品の看板と棚沢氏。

「わが町探訪」コピー写真

院長さんが、かかりつけ医だったご縁から近くの慈愛病院の会報『慈愛だより』に棚沢氏が70歳代後半、2003年から2005年にかけて全11回連載された本郷六丁目(一部五丁目)の史跡や縁の人物を取上げた「わが町探訪」の記事コピー。(写真は「新宿中村屋」発祥の地を取上げた回です。)氏の長い人生経験を中心に綿密な現地調査及び文献調査の他、棚沢氏の人脈に拠る貴重な関係者からの聞き語りによる記事は棚沢氏で無ければ書けない内容。執筆された記事について棚沢氏曰く「本郷は文人関係などの様々な史跡が有りますが、私は自分の愛してきた本郷六丁目辺り以外の事は書かないのです。」と深いお言葉を述べられました。

棚沢氏近景写真

長い付き合いのソロバンとレジスターと供に棚沢氏は今日も元気に帳場に立たれていらっしゃいました。

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