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本郷六丁目に最近復元された「求道会館」について調べて見ました。
創立者僧侶「近角常観(ちかずみじょうかん)」(一八七〇-一九四一)は明治三年滋賀県琵琶湖畔の浄土真宗大谷派の小さな寺に生まれ、幼い時から経典を諳んじてました。秀才なので本山東本願寺が奨学金を出し、一高・東京帝大哲学科を卒業し更に明治三十三年より三年間、欧米の宗教事情を調べ、特にキリスト教の伝道、社会活動に深く感銘しました。
帰国後葬式を主とする佛教でなく、墓地を持たず、キリスト教的に布教する事に努力し、現在地約二千平方メートルを本山より得、求道会館(大正四年)を設立しました
求道会館の設計は「武田五一」(明治五年生まれ一八七三-一九三八)です。武田五一は辰野金吾に続くわが国建築の第二世代で、現在の福山市に生まれ、西片町に居住し東京帝大建築科を卒業し、明治三十四年-三十六年ヨーロッパに留学しました。帰国後京都帝大建築科の設立に当り、教授となりました。欧州新様式の影響と日本建築の調和の新しい設計で、京都商工会議所等比較的関西に多くありますが、東京では求道会館、求道学舎の二つだけです。
近角常観は設計者武田五一に「経費の節約、堅牢、質素荘厳、キリスト教教会と同じでなく、更に沸教寺院とは異るように」希望しました。この為設計に約十年かかり、設計変更も三回して、大正四年求道会館(約三〇七平方メートル)が完成しました。会館は一階正面の六角堂に佛像を置き、木製の長椅子で、二階畳敷の部屋は座って参列する事が出来ます。求道会館完成後武田五一は設計料金全額を近角常観に返金した事は、二人の密接な関係の表われです。その後敷地内の木造求道学舎(寄宿舎)を武田五一設計により鉄筋コンクリート造り三階建にし大正十四年完成しました。
近角常観は求道学舎で若い学生達と起居を共にし、求道会館で自ら青年時代に体験した悩みを明かし、親鸞の歎異抄を基本とした「日曜講話」を行いました。会館は何時も満員でお話中は水を打った様に静かでした。当時講話を聞きに来る人は本郷通り市電帝大前で下車しわが家の横を通る人が多い為、店では佛教書が売れたと父は話してました。
時には一般も使用出来、戦前の「国防婦人会森川分会発足式」が求道会館で行われ、正面で並んだ写真が残ってます。
近角常観は長男が戦死し、病に倒れ乍ら昭和十六年他界する迄、夫人に支えられ日曜講話を行いました。講話は弟近角常音が引継ぎ昭和二十八年亡くなる迄続けました。
その後は後継者が無く昭和二十八年より求道会館は長い問閉鎖されました。途中修復が計画されましたが、実行は見送られ、約五十年そのままの状態でした。一部の通行人や近くの人は「お化け屋敷」と言い、子供の「探検の家」となってました。
平成六年「東京都有形文化財(建造物)」の指定を受け修復工事が六年余かかリ平成十四年完成し建築当初の姿に復元され、本郷の「名所旧跡」が一つ増えました。
現在は毎月末土曜日(午後一時―二時半)公開され求道会代表近角眞一氏の「求道会館、近角常観、武田五一」等について説明を聞き乍ら見学出来ます。又一般の音楽会、研究発表会等にも活用されてます。
この稿を書くに当り近角眞一氏から資料の提供を受けました。
(文京支部員 棚澤書店 棚沢孝一)
(『慈愛だより(発行 慈愛病院様)』より転載致しました。また、連載の順序は初出時と異なります。)
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