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文の京サロン 第十一回:「わが町探訪 第六回『鳳朙館(ほうめいかん)本館』(国登録有形文化財建造物)」(文京区本郷五-十-十五)

明治十年東京大学が創立されて以来、本郷には学生の下宿が増えました。

鳳朙館の創業者小池英夫氏(明治三十一-昭和五十年 一八九八-一九七五)は岐阜県輪之内町出身です。そこは木曽川、長良川、揖斐川の三大河川に囲まれた中にあり、水害によく見舞われました。そのため、東京に出て本郷で下宿屋を営む人も居りました。朝陽館本館、真成館、本郷館、朝明館を営業していた種田四兄弟を頼って小池英夫氏が上京したのは大正十二年でした。最初真砂町の朝盛館を買入れ、以後昭和十一年には朝盛館を手放し、明治三十年代建築、四十七室の下宿屋鳳朙館本館を購入しました。下宿している学生が帰省したりして空いている部屋は旅館として一般の人も受け入れました。当時は行商人、大学関係者が長期滞在しました。ミズーリ艦上で昭和二十年八月、降伏文書に全権として出席した重光葵氏(一八八七-一九五七)はこの建物の「弥生の問」に下宿していた一人です。

小池英夫氏は建築に大変興味をもっており、一人又は棟梁を伴い、よく深川、木場に行き銘木を求めました。床柱を一本買うとすぐ頭の中でそれを基にした部屋の造りを考え、京都から職人を呼び、材料に合わせて各部屋を異なった造りに改造しました。戦後は旅館になり二十六室で営業しました。他所では見られない職人芸の結晶といわれる部屋の名前は銘木の名前からとりました。

平成十二年、この見事な造りの鳳朙館本館は「国登録有形文化財 建造物 東京都第十三-八七号」に指定されました。

昭和二十年四月、大蔵省と軍需省が夫々職員宿舎として借り上げたいと申し込みがありました。下宿していた毎日新聞の記者に話をすると「この戦争は負ける。負けた時は軍需省の方が早く出るよ。」と言われ、「家賃の安い軍需省に貸したのがよかった。」と、小池英夫氏は語っておりました。三月十日の東京大空襲では幸いに焼け残りました。

戦後になると下宿屋は何軒か旅館に変わりました。鳳朙館は比較的早く旅館に転向しました。戦災で旅館が少なかったため鳳朙館本館では修学旅行、農協等団体客が増えました。昭和三十四年、修学旅行専用列車「きぼう」「ひので」号が誕生し更にお客様が増加しました。昭和三十年頃館内の暖房は火鉢でしたので従業員は徹夜で火の用心に気を配りました。昭和二十六年台町別館、昭和三十年森川別館が建築されました。

最近はホテルに泊まる修学旅行もあります。広い風呂、畳の部屋でのくつろぎ、多人数で語り合いながら一夜を過ごすことは生涯の思い出となることと思います。

今やインターネットにより世界中に日本の旅館の良さは知られ外国からお客様が増加しております。ドイツの建築家や写真家は毎年「日本に来た時は必ず日本式旅館に泊まる」と言っているそうです。時には内外の宿泊客から今まで気がつかなかった建築上貴重な箇所を逆に指摘されることもあり建物を一層大切にしております。

数年前より宴会プラン(五千円、七千五百円、入れ替えなし個室利用)が行われ、私のお客様も毎年クラス会に利用し楽しんでおります。今後も鳳朙館の益々の発展を希望します。

  • 注一、 明の古宇(大漢和辞典大修館) 朙月堂パン店(本郷四丁目)も使用してます。
  • 注二、 昭和五年本郷の旅館、下宿数(文京区史)
    • ・旅館・下宿 一二二
    • ・旅館 一〇
    • ・下宿 一七〇

(この稿を書くにあたり、鳳朙館小池邦夫氏から資料の提供を受けましたことを付記します。)

(文京支部員 棚澤書店 棚沢孝一)

(『慈愛だより(発行 慈愛病院様)』より転載致しました。また、連載の順序は初出時と異なります。)

鳳明館看板

右書き鳳朙館の文字のある正面玄関の看板

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