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文の京サロン 第十四回:「わが町探訪 第九回『郁文堂』(文京区本郷五丁目三〇-二一)」

歴史と文化の風土に恵まれた本郷の町に目立つ産業として、旅館、下宿、医療機器関係のほかに書店や出版業があります。

郁文堂書店は明治三十二年(一八九九)森川町六番地(元東京帝国大学の構内)に信州出身の大井久五郎氏が創業した本屋です。明治四十二年帝大の拡張により帝大正門前通りの向かい側、森川町八〇番地(本郷六-一七-一〇)に移りました。

当時はあらゆる学問の分野でドイツ語が盛んでしたが専門に洋書を扱う店は少なく、丸善と郁文堂くらいでした。古書ではドイツ文学関係を多く扱うようになり、ドイツ語テキスト出版へと発展していきました。大正二年には『ヘッベル自伝』が刊行されています。

芥川龍之介も一高、帝大在学中(明治四十二年-大正五年)に郁文堂に出入したことを『その頃の赤門生活』(帝国大学新聞、昭和二年二月二十一日号)に記しています。

戦前の出版物は六百点を越えています。戦後は『ファウスト第一部註解』の復刊を皮切りに和独・独和辞典のほか、ドイツ文学書、語学書等ドイツ語関係の本の出版が活発に続けられて居ります。昭和四十四年には現在地本郷五丁目三〇-二一に郁文堂出版の本社を移転、翌年有限会社から株式会社に組織変更をしましたが、その社屋の沿革について記します。

この建物は大正十二年四月日本晝夜銀行本郷支店として建築されましたが、「木骨人造石仕上亜鉛瓦葺二階建」の構造で銀行建築の特色を表した堅牢な造りです。四ヶ月後には関東大震災に遭いましたが、損傷はありませんでした。昭和十八年に安田銀行に合併、昭和二十三年に富士銀行に改称、昭和三十五年この支店は本富士町へ移転しました。その後、この建物は福祉事務所、医学書院を経て、郁文堂に移りました。

先日、改めて店内を拝見しましたが、私が昭和二十四年に棚澤書店の増資資金を預金しにいった当時とそっくりそのままの状態で、内部のイタリア産大理石の壁、シャッター鍵ボックス等が保存されているのに驚きました。

郁文堂の建物の土台と本郷通りに面した隣のビルとの間に「本郷六丁目」と刻まれた縦横約二十センチ、厚さ七センチの石があります。この地点は昔からの町の境を示しているのです。森川宿は明治五年森川町となり、そのとき旧本郷六丁目と森川町(現本郷六丁目)の境界として設置されたのかもしれません。正に創業百年を超える老舗郁文堂以上に時を刻んだ由緒ある石のように思われます。

この原稿を書くにあたり、郁文堂の元社長大井敏夫氏から資料の提供を受けたことを付記します。

(文京支部員 棚澤書店 棚沢孝一)

(『慈愛だより(発行 慈愛病院様)』より転載致しました。また、連載の順序は初出時と異なります。)

郁文堂外観

石組は花崗岩、上部は人造石

郁文堂内部

大理石は床まわりにぐるりと張ってある。

境界石

旧本郷六丁目地境の境界石 手前が現在の六丁目

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