« 紙魚の会(終了) | メイン | 城南展(終了/次回は6月5.6日) »

更新って、途切れてしまうものなのですね。


こんにちは、「東京古書組合・広報課」です。
このコーナーでは、私たち東京古書組合や古書業界にまつわること、
またそんなことから少しはずれたこと、他愛ないこと、取るに足らないこと、
なんでも気ままに(週一回か二回)書いて行くことができたら良いなと、
切望していたんですが、先週は更新できませんでした。
は、反省してます。


※今回は普通にブログのようなことを書きます。


先日、このブログが置いてある「東京の古本屋」でも紹介した、
吉祥寺の百年さんで行われたイベント、
『百年「と」現代小説の倫理』へ出かけました。
小説家・桜井鈴茂さんと文芸批評家(?)・石川忠司さんの対談。
私は個人的に石川さんの言説をかなり信頼していて、
(『現代小説のレッスン』『衆生の倫理』などすごく面白いです)
気っぷの良い、というか、ほとんど、べらんめぇな口調で、
目の覚めるような、鋭いことをずばっと言ってしまう、
それで、
今、展開している話と関係ないこと、無駄な流れについては、
「そんなこと、どうでも良くねぇ?」
と、ばっさりと切り捨てる。
そんな石川さんの話かたは実に素敵に刺激的で、
またそれに呼応する桜井さんの、時間と共に酔っぱらっていき、
(お二方ともアルコールを摂取しながら、話を進めていたわけですが、
どんどん「中川状態」(桜井さん談)になっていきました)
呂律が回らなくなりながらも、根本的な所だけは、
「俺はそれだけは絶対に譲れないな!」
と、強い意志を垣間見つつ、
でもやっぱり酔っぱらっていて幸福そうで、
と、
そんな二人のやりとりに、引き込まれっぱなしの三時間(!)でした。
(予定を一時間も延長したわけでした)




イベントの中身自体については、
前述したようなお二人のお話なので、もう縦横無尽にあれこれと展開したし、
二人だけではなく、
会場にいた文芸批評家の仲俣暁生さんも巻き込み、
また普通の対談と違って、最後に質問の時間を取るというのではなしに、
「いつでも質問したい人が、したいタイミングで投げかけて良い」
という、独特な距離感で行われたために一層渾然としたものになったので、
要約するようなことはできないのですが、
石川さんの、
音楽でも絵でも、先駆者たちと全く同じパフォーマンスをできるとして、
それに対しては、問題なく価値は生じるけれども、
(ピカソのゲルニカを全く同じに描くことができる、とか、
 あと、ミュージシャンの演奏を例にしていました)
小説だけは、殆ど唯一そうではない、
技術とは離れた、
書き手の精神(と言うと乱雑だけど)のみが勝負になってくる、
(今、三島が『仮面の告白』なんか書いたって新人賞は取れないだろ、
 というようなことも引き合いに出していましたが)
という風な発言が、すごく気持ち良かったです。
(最早、小説というもの自体に技術的な側面なんか無いのかなと個人的には思います)
また人間の質・精神(?)は、時代と共に衰えていくものであるのだ、
(そこから色々な話へ繋がっていったのですが)
という、
石川さんの価値観(そんな大仰なものではないと自身は思っているでしょうが)も、
またそう言い切られることが、爽快であるような部分もあって、
科学の進歩にしても、物質がじゃんじゃん溢れていることにしても、
(それらが、精神を平穏にする、という効能があるとしても)
もっと違った、
100メートルをより早く走るには、というような身体的なことまで含めて、
それらは結局、人間の精神そのもの(いくら何でも酷い言い方ですが)とは
無縁の流れであるような場合が多いのではないか、
そんな気がして、
(100メートル走のランナーだったら、100メートル走のランナーとしての
強い精神を作る技術が多分求められることになると思うのですが)
そういうことを突き詰めていけば行くほど、満たされていくほど、
人間の質が衰えていくというのは、当たり前なのかなと思いました。
(と、えらそうなことを、すみません。反省)



写真は、今、読んでいる、ホルヘ・ルイス・ボルヘス『砂の本』。
ラテン文学は、
登場人物の名前や地名だけで、かなりぐっとくるものがありますよね。



それではまた次回、続いたら嬉しいです。
東京古書組合広報課でした。