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■特集「ペリカン書房」品川力追悼■
11月3日。102歳の古本屋が亡くなりました。品川力さん。
本郷・ペリカン書房の主です。古書業界に入るのは震災前。昭和初
頭には東大近くの落第横丁でキッチン・ペリカンを始め、若き日の
作家たちと交わり、織田作之助らと一緒に文芸誌を出したりもしま
した。
いつ頃までだったのか、腰手ぬぐいに麦わら帽子、冬でも同じ格
好で神保町界隈を自転車で走った品川さんを見かけたものでした。
遠くても、お客さんのところへは自転車で本を届けていたのです。
そんなことから「文献配達人」と呼ばれるようにもなりました。
新刊書店がどんどん巨大化し、産業化する一方で、古本屋の世界
は、依然としてとても小さなものです。でも、ここでは店主の個性
がそのまま本屋の個性として生き続けています。
いつまでも本を探し、見つけ、それを持って手渡したい人のもと
へ自転車を走らせる。きっとそれは、私たち古本屋の原点なのかも
しれません。今月は、在りし日の「文献配達人」=ペリカン書房
品川力さんを偲び特集を組みました。
今回の「ペリカン書房品川力追悼」に、五名の方が執筆してくだ
さいました。深く感謝いたします。
・青木正美(青木書店)
・上笙一郎(児童文化研究者)
・紅野敏郎(早稲田大学名誉教授)
・堀切利高(平民社資料センター代表)
・八木福次郎(日本古書通信社)
(敬称略・順不同)
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◇◆◇ペリカン伝説
青木 正美◇◆◇
十一月三日、本郷・ペリカン書房の品川力さんが亡くなった報を
聞く。一九○四年生まれ、享年百二歳だった。
品川力(つとむ)は新潟県柏崎町に父豊治・母ツネの長男として出
生。父は内村鑑三の弟子で、書店と牧場を営んでおり町の有力者だ
った。力が正規の学校としては高等小学校しか出ていないのは、吃
音者だったことからと思われる。
父は大正七年政界入りを企てて失敗、一家をあげて上京する。力
は父が神田猿楽町に古本屋を開いたので店番に努める。これは、古
本屋なら黙っていても何とか商売になるだろうとの、父の配慮でも
あったのだ。力は店番の傍ら内村鑑三の『基督信徒の慰め』などを
読み心酔して、鑑三の講演を聴きに内幸町の衛生会館へ出かけたり
した。
すると大正十二年の関東大震災が起き、借り店だった品川書店は
全てを灰にしてしまう。二十歳だった力は、このあと六年間、銀座
のレストラン・冨士アイスに勤める。ここへは外国人もよく来て、
力は語学を学んだ。
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◇◆◇蘆花公園から
上 笙一郎◇◆◇
わたしが品川力さんを知ったのは、一九五五(昭和三十)年かそ
の翌年のことである。わたし、二十二歳か三歳、品川さんは一九〇
四(明治三十七)年の生まれだから、五十代の前半、父親の歳の人
であった。
当時のわたしは明治期社会主義文学の研究に心を寄せており、徳
冨蘆花もその一環と考え、通称=蘆花公園――蘆花の旧居にしばし
ば足を運んでいた。公園には管理人がいて、名は後閑林平、清潔な
クリスチャンで、明治期のキリスト教と社会主義の文献の隠れた蒐
集家。その人に信服し親炙していたところ、ある日紹介されたのが
大学教授のような知的な風貌の中年男性で、それが品川さんだった
のである。
対面していてもほとんど話をされないので、無学歴で若年無名の
わたしなど無視してのことかと思ったが、そうでないことは間もな
く分かった。生まれついての吃音で、すらすらと会話できなかった
のだ。
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◇◆◇追悼・品川力さん
紅野 敏郎◇◆◇
品川力さんは、その白髪で彫り深い風貌からいえば、碩学と思わ
せるような「貴人」である。同時にその日常の行動からいえば、
「奇人」といってよかろう。私たち研究者にとっては、いわゆる稀
覯本ではない、普通の雑書の類を、道の遠近を問わず、「自転車」
に乗って、配達してくださる、少しオーバァにいえば「文化の配達
人」が品川さんだったのである。本郷赤門近くの「落第横丁」と呼
ばれている彼の営むペリカン書房にも立ち寄ったが、私が結婚した
東中野の駅に近い、平屋の四所帯が雑居していたアパートの六畳一
間の部屋に、幾度「自転車」で雑書、雑本を運んでくださったこと
か。私のところをすませると、小金井の串田孫一さんのお宅へまわ
られるのが常であった。彼は夏冬を通して、扇子を持っていて、
「自転車」から荷物をとり出すと、パッと開いてパタパタあおぐ。
そしてさっと立ち去る。その去りぎわのみごとさは絶品。
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◇◆◇やはり不思議な人
堀切 利高◇◆◇
品川さんに最後に会ったのは、安成貞雄のトマト忌の時だったか
ら、もう二年前になる。
二〇〇四年は貞雄死して八〇年に当るので、祥月命日の七月二三
日に本郷の求道会館でご遺族もお呼びしてトマト忌を催したのだが
(トマト忌とは貞雄の容貌がトマトに似ていたので管野須賀子がつ
けた仇名に由来する)この時、不二出版の山本有紀乃さんと計って
品川さんをお呼びしたのである。場所も近くの求道会館をとれたし、
こんな時でもなければ外へ出る機会もないだろうと考えたのである。
久しぶりの外出なので大丈夫かなと思ったが、案ずることもなく、
迎えに行った若い人たちの押す車椅子に乗って見えられた。お変わ
りもなくと見えた。しかし百歳の品川さんは、もう幼い心に戻って
いられたのである。でも少し話を交わすこともでき、一緒に写真に
もおさまり、また車椅子に乗って帰って行かれたのであった。
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◇◆◇稀人 品川ペリカンさん
八木 福次郎◇◆◇
暑い暑いと云いながら、例のツバ広のカウボーイハットを被って
室へ入ってくると、草履をぬいで素足になり、冬でも尻のポケット
にさしてあった扇子をパタパタと使うのが品川ペリカンさんのいつ
もの姿であった。古書会館四階に私の事務所があった頃はよく見え
たが、六年前に今の神保町一丁目に移った頃からは、ほとんどみえ
なくなった。体調を悪くして、自転車で走りまわることもされなく
なっていたようだ。元気な頃は、室へ入ってこられると、「馬はつ
ないでありますか」と聞くと、「古書会館の前につないであります」
と真顔で答えられた。私たちはカウボーイの品川さんと云っていた。
自転車でどこへでも、探しておられる本や文献を見付けては殆ん
ど仕入れ値でその人に届ける、それが無上の楽しみであるようだっ
た。駒場の文学館や小金井の串田孫一さんのところへなども、自転
車で行っておられたらしい。文学館へは、織田作や多くの知名人の
葉書や手紙を何千通も寄付され、そのリストが一冊のパンフレット
になるくらいで、無欲な善人で、本当のクリスチャンといえるよう
な人であった。串田さんも品川さんの家族のことを聖家族と書いて
おられた。
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