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■四谷文鳥堂の特色■
古書 りぶる・りべろ 川口秀彦
一九六〇年代の終り頃開店し二〇〇五年秋に閉店した四谷文鳥堂
は、神楽坂の上、新潮社や旺文社の傍にあった文鳥堂書店の二番目
の支店だったが、魅力ある個性的な新刊書店として、現在も一部の
本好きの人には評価の高い店である。では、その魅力、特色とは何
だったのか、同店が個性の確立をほぼ終って充実へと向かっていた
七〇年代半ばに店員だった私が、記憶していることをざっと書いて
みることにしよう。
文鳥堂は、街の新刊屋として、取次や版元に近いという立地を活
かしながら精一杯普通の新刊屋としての努力も怠っていなかった。
経営者の理解もあって二十坪(のちに三十坪)の店とは思えぬ質の
高い品揃えをし、当時の大型店である百坪百五十坪の書店の棚と遜
色のない密度の濃い棚づくりをしていた。しかし、文鳥堂の品揃え
の特色は、取次経由で入荷する商品を並べる一般書店としてだけで
なく、ミニコミ、自主出版物を豊富に扱ったことと、ミニプレイガ
イド業務をやっていた点にもある。
現在のようにコンビニでチケットの買える時代ではなかった。映
画などの前売券は特定の場所でしか購入できなかったのだが、文鳥
堂はその特定の場所として、洋画ファンなどによく利用されていた。
最新評判作の映画ポスターがいつも店頭を彩っていて文鳥堂の雰囲
気づくりの大きな要素となっていた。ミニコミを扱うことでは、新
宿模索舎、神田ウニタ、早稲田文献堂と並ぶ有名店だった。政治的、
文学的なものだけでなく、松尾書房の「下着と少女」シリーズも販
売するなど、硬派から軟派まで目配りした品揃えだった。
品揃え以外の同店の特色は、外に向けては書店から読者への情報
の発信であり、内に向けては版元、他書店からの参加をつのっての
勉強会であった。何号かを重ねた「本の新聞」というタブロイド紙
には早川書店の早川義夫氏も参加していた。文鳥堂の雰囲気づくり
の一大要素であるBGMは、早川氏のジャックスや浅川マキが多く、
選曲は店長の木戸幹夫氏がしていた。
すべての面で同店の推進力だった木戸氏は八〇年代に入って代官
山文鳥堂として独立、その後発信力は弱まったが品揃えの指向は維
持された。そこには木戸氏と共に初期の四谷店で働き、私の入店後
程なく飯田橋店店長となった斎藤孝良氏の力もあるだろう。斎藤氏
は最後の四谷店店長でもあった。
七五年十月からの満二年、同店で新刊書店員として修業した私は、
神奈川県内の新刊屋勤めのあと、八一年七月に横浜で古本屋を開業
した。当時はたまたまの自分の経歴を売りものにする気はなかった
が、数年前吉祥寺に移転して後の業績の悪化でその禁を破ったキャ
ッチコピーを作った。「幻の出版社薔薇十字社にいた、伝説の新刊
書店四谷文鳥堂にもいた、頑固な店主の不在が多い店。」不在がち
なのは外売に追われているためである。
■川口秀彦(かわぐち・ひでひこ)■
一九四六年九州に生まれ育つ。早稲田大学文芸専攻の第一期生。
学習参考書、医学書の編集などを経て七一年から七三年まで薔薇十
字社に勤務し、その後造船関連誌の編集者。七五年に文鳥堂、七七
年から神奈川県内の書店に勤め、八一年横浜で古本屋を開業。七年
前に吉祥寺に移転し今日に至る。吉祥寺移転のきっかけは大学入学
以来の友人五味正彦氏(新宿模索舎、吉祥寺ほんコミ社の創業者)
の誘いによるものだった。
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