「五万」「十万」競り人の五万の発声から始まった江戸初期の文書四点はすぐさま五十万の大台を超えてしまった。声を出しているのは、私と同業のA氏。会場は福岡から高速を使って一時間半の道のりを車で走らせた熊本の田舎。この骨董市場は月二回開催されているが、競られる品物のほとんどは、陶器や道具類で他には掛け軸の軸類と呼ばれるものが、加わることとなる。したがって私たちの目的とする紙類は出ても極僅かである。たいがいは書籍の新古書と言われるもの。地方文書などは二〜三ヶ月に一度出れば良い方である。それを承知で我々が毎回顔を出すのは、今日のような古文書が一年に一度くらいひょっこりと出て来るから油断がならないからだ。同業は大体三〜四人くらい顔を出している。私は常に親友のI氏と行動を共にするので、敵は大体一人くらいか。
今日も文書は誰でも知っている秀吉の朱印状と、豊後の切支丹大名大友宗麟、他の二通は佐賀の武将龍造寺隆信とその嫡子鎮賢親子のもの。秀吉の朱印状で極普通の内容であれば今は可成り値段は下がっている。宗麟はまあそこそこの値を踏んでよいであろう。A氏もこの二点は踏みきるであろうが、問題は龍造寺の二点である。A氏は龍造寺の文書を誰の武将のものか判断しきらないと私は睨んだ。今、値は八十五万まで来ている。龍造寺は鍋島が佐賀を治める前の武将であるが、近年その文書は市場などで姿を見ることはほとんど無く、是非扱いたいとの思いは強い。隆信の文書は花押ではなく扇形の黒印が押されいて珍しく、このような形の黒印は私も初見である。息子の鎮賢は文書の内容も悪くない。頭の中であれこれ考えを廻らしながら、相手の顔色もそれとなく観察するうちに、百万の大台を超えてしまった。よし、とにかく落とそうと一二〇万の発声でようやくA氏もあきらめて降りた。競り人の五万の発声から一〇分は経過していないであろうが、随分と長い時間だったような気がした。
私は常々思うのだが、古本の業界と骨董の世界での本当に旧いものの出現に、これほどの落差があるのをどのように説明すれば良いのか。
次ぎの話も未だ一年と経たない昨年の夏の事であった。この骨董の市場は月一回の開催で、常に八十人から百人くらいの業者が顔を出す大きな市場である。東京、関西などの骨董業者の顔も見へ福岡では一番活気のある骨董市場であろうと思われる。我々同業もいつものメンバー五〜六人が顔を出している。下見で永禄から文禄にかけての古写本から、慶長三年頃の往来物数冊まで江戸極初期の文書は豊後国東の名刹寺院の出と覚しき文書であった。文書を確認しながら鳥肌の立つのを覚えたことを私は記憶している。競り人の発声は一万からであった。私は十万単位で上げていったが、あっけなく五十万で発声は止まり少々気が抜けた気がした。今度も私と競っていたのは同業のA氏であった。地元の古文書は自家目録に掲載することとし、往来物などの古写本類を東京の市場に送ったら、原価をはるかに超える金額が振り込まれて来た。
古本屋の業界と骨董の業界を比較すると、東京の市場は別として九州の古書市場に関する限り、このような事例の出現は皆無に等しい。一年経っても十年経っても古書の市場では遭遇しない商品が骨董の世界では当たり前の如く出現する。今日も早朝より高速を飛ばして骨董市場へ車を走らせている私である。
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