「さよなら、はるみちゃん」
その痩せっぽちの野良ネコが東部古書会館にやってきたのはいつだったろう。
かれこれ10年近く前の初夏。
それまでのねぐらを追い出されたのだろうか、
生まれたばかりの子ネコをくわえて引っ越してきたのだ。
子ネコは3匹。
1匹はすでに死んで腐敗がはじまっていたのに、大事に抱えて離さなかった。
残った2匹のうち1匹はカラスに襲われた。
走りまわれるまでに成長した最後の1匹は車にひかれてしまった。
最後の1匹が死んだ夜、そのネコは戻らぬわが子を一晩じゅう呼びつづけた。
ほどなく会館の管理人のおばさんがそのネコを会館内に入れ、面倒をみるようになった。
野良ネコは「はるみちゃん」になった。
おばさんは、どちらかというと「おばあさん」に近い年齢なので、ネコの飼い方も昔ふうだ。
はるみちゃんは外を自由に歩きまわって暮らしていた。
散歩したあと、会館の引き戸を前足で開けて帰ってくる。
東部古書会館は本来、東京古書組合の東部支部が、
業者のための古書市場「古書交換会」を開いたり、
役員会に利用したりするための施設だ。
市場の開催中や役員会の最中に、引き戸が音もなくそっと開く。
事情を知らない人には、小さなネコの姿は目に入らない。
だから、引き戸がひとりでに開いたように見え、ギョッとしたものだ。
穏やかな年月が流れ過ぎていく。
以前の過酷な野良ネコ暮らしが響いたのだろう、はるみちゃんは急速に老けこみ、
座布団のうえでウトウトと過ごす時間が長くなっていった。
一方、人間の世界では大きな変化が進行していた。
2010年、東部古書会館は閉鎖されることになった。
5月。
会館の閉鎖が7月末、管理人さんの引っ越しが8月末と決まる。
なにやらあわただしい空気が漂いはじめたある朝。
はるみちゃんは初夏らしい爽やかな日差しのなかへフラっと出ていった。
そして、ふたたび戻らなかった。
後半生を過ごした東部会館と運命をともにするかのように。
この文のためにはるみちゃんの写真を探したら
やっと1枚、携帯電話で撮った横向きの画像が見つかった。
長い間ここで暮らして、残ったのはこの1枚と小さな食器ひとつ。
でも、そのほうが、
会館に寄り添ってひっそりと生き、いさぎよく去っていったはるみちゃんらしい-
といえば、らしいのかもしれない。
ボクもそんなふうに生きて死にたい。
ふと、そう思ったりもする。
(文責:東京古書組合東部支部・殿木祐介)