文京の古本屋

読みもの

文の京(ふみのみやこ)に、学術書とこだわりの古書屋。

トップページ « 読みもの / 文の京サロン / 第一回:「八丁堀の与力も通った文京の古本屋」

第一回:「八丁堀の与力も通った文京の古本屋」

「深沢良太郎商店」店主、深沢良太郎氏写真

「深沢良太郎商店」店主、深沢良太郎氏(『紙魚の昔がたり 明治大正篇』より転載)

2007年10月29日~12月9日の間、千代田区立四番町歴史民俗資料館にて開催された『平成十九年度特別展「江戸町与力の世界 -原胤昭が語る幕末-」』にて元文京支部員故深沢良太郎氏(明治三年~昭和二十五年)が経営されていた深沢良太郎商店から元南町奉行所与力、原胤昭(はらたねあき)氏が明治以降購入された古書の一部が他店から購入された古書と供に深沢良太郎商店の値札帯の付けられた状態でガラスケース内に展示され「文京の古本屋」の歴史の深さを伺わせる展示物となりました。

原胤昭氏は嘉永六年(1853年)2月2日、江戸南町奉行所与力佐久間健三郎の三男として八丁堀の屋敷に生まれ、12歳の時母方の町奉行所与力原家養子となり、2年後の慶応2年(1866年)には14歳で南町奉行所与力となりますが、その2年後の16歳には明治維新を迎え町奉行所も廃止されるにあたり、町奉行所与力の身分を失うことになりました。その後明治7年、22歳の時キリスト教の洗礼を受けた事が氏の人生の転機となりました。洗礼後、教会の設立や聖書の出版、社会事業、現在の十字屋楽器店の前身となるキリスト教関係の図書を扱う十字屋書店を銀座に開業する等の事業を行われましたが、明治16年31歳の時「福島事件」を取り扱った錦絵を発行.配布を行った事により逮捕され、3ヶ月間投獄され実際に牢獄を経験した事から出獄後自宅を開放した釈放者の収容施設を設置し、以後の人生を社会事業活動に捧げることになります。またその一方で氏は、旧町奉行所関係者の親睦組織「南北会」の会員として八丁堀の年中行事なども書き残し、晩年は「最後の町与力」としてラジオなどにも出演され町奉行所与力.同心などの貴重な逸話を残されました。そして亡くなる数年前まで一貫して社会事業活動を行われた氏は昭和17年90歳で、天寿を全うされました。

原胤昭氏は社会事業関係を中心とした古書を大量に収集され、昭和2年の75歳の時には神田の自宅を開放し閲覧を行えるようにしました。氏は大正12年の関東大震災に被災され、神田の家屋も焼失されたとの事ですので、現存する物はそれ以降に購入された古書が多いと思われますが(但し、南北会の保存していた旧幕時代の町奉行所関連の古文書は他の会員の下に保管されていた為、震災を逃れ現在も多数現存しております。)その収集過程で文京区(旧小石川区)の白山上の東洋大学近くで営業されていた深沢良太郎商店にも通われていたようです。深沢氏は明治15年ごろ古書業界に入り、後年は文京区の西片に邸(阿部家旧下屋敷)のあった旧福山藩主阿部伯爵家から岩崎灌園(幕臣で有り、江戸期の学者)の『本草図譜(江戸時代の植物図鑑)』の写本95冊を有斐閣等と共同仕入れで当時のロシア公使に納入するなど、多数の貴重な古書.古文書を掘り出されました。

当然原胤昭氏が他の文京支部員の古書店にも通われていた事が想像できますが、原胤昭氏と深沢氏を初めとした文京の古本屋の古書店主達の間にどの程度交流が有ったかは現在となっては分かりませんが現在の蔵書家の方と古書店主の関係を考えると、相応の関係があったものと想像されます。また、購入後は通常は廃棄されてしまう事が多い値札帯も現在は図書館に収蔵されている氏の旧蔵書は古書と供に保存されている物も多く、現在では営業を行っていない古書店の取扱品や売価など古書業界史からの観点としても貴重なものとも言えます。

(文京支部員 古書Dejavu 宮部隼人)

※ 故深沢氏の経営されていた深沢良太郎商店は現在は営業しておりません。

企画展開催時の千代田区立四番町歴史民俗資料館写真

企画展開催時の千代田区立四番町歴史民俗資料館

南町奉行所の石垣写真

有楽町イトシアベンチ写真

有楽町イトシアオブジェ写真

原胤昭氏の勤務していた南町奉行所の石垣などの出土品の一部は現在は「有楽町イトシア」でベンチやオブジェとして使われています。(撮影 文京支部員 古書Dejavu 宮部隼人)

参考資料

  • 『平成十九年度特別展「江戸町与力の世界 -原胤昭が語る幕末-」図録』千代田区立四番町歴史民俗資料館刊
  • 『「原胤昭旧蔵資料調査報告書(1)」-江戸町奉行所与力・同心関係史料-』千代田区教育委員会刊
  • 『紙魚の昔がたり 明治大正篇』反町茂雄(故人.元文京支部員)著 八木書店刊

ページトップへ