文の京(ふみのみやこ)に、学術書とこだわりの古書屋。
皆様は、雑誌の連載や本を出している古書店主がとても多い事をご存知でしょうか。東京古書組合でも機関誌「古書月報」を隔月で発行し、古書店主達が原稿の執筆を行い、編集も担当の古書店主達が自ら行っている程です。こちらでは東京古書組合文京支部員の古書店主達による、エッセイを掲載していきます。主に歴史のある文京区をテーマに自らの専門分野を活かした物や、独自に調査した物など様々なエッセイをお楽しみ下さい。
明治以降本郷には多くの文化人が住んでいました。徳田秋聲氏(一八七一~一九四三)は森川町に明治三十九年から昭和十八年まで永い間住んでいました。宇野浩二氏(一八九一~一九六一)が森川町に居を定めていたのは昭和二十一年から昭和三十六年までの終戦後の比較的短い期間でしたが、私が昭和二十三年に上京したときに接した最初の作家です。
歴史と文化の風土に恵まれた町の続く本郷の中心に、「本郷もかねやすまでは江戸の内」と言われる本郷三丁目の交差点があります。その本郷通りを北上すると岩槻街道になります。中仙道と分かれる所が「追分」で、その手前に言問通りと交わる「本郷弥生交差点」があります。
この辺り一帯本郷六丁目(旧森川町)はもとは本多家の屋敷町でした。江戸時代のはじめから、岡崎藩本多家(森川町一-一)の脇に初代本多平八郎忠勝を祀る「映世神社」(森川町一-ニ、現本郷六-十四)がありました。
つながっているんだなあという話からはじめます。秋山清さんと晩年おつきあいをさせていただいた。お話をみんなでうかがったり、甘えて、原稿を書いていただいたり、それで、「彷書月刊」の創刊号に、秋山さんの原稿がある。お亡くなりになって、コスモス忌という偲ぶ会にも、おじゃまさせていただいたりもした。
パン屋と本郷について調べてみました。
関東でのパンの製造は、横浜開港の安政六年以降、欧米人約千百人が住み、パンを注文するようになったため、一八六一年米国人グッドマンがパン屋を開いたのが始まりのようです。東京では明治三年(一八七〇)木村屋が銀座にパン店を開いています。海軍がパン食を採用したので一般にも急速にパンが普及しました。明治十五年に東京のパン店は百十六店になって、木村屋の一個一銭のアンパンは銀座名物になりました。
(『東京・横浜復興建築図集』建築学会編.丸善発行(1931年) より転載)
失われた、もしくは姿を変えてしまった文京区内のConstruction(建造物・構造物)たち。
文献資料と現地の風景から、その面影を探します―。
地下鉄丸の内線・茗荷谷駅の改札を出るとすぐ、目の前を横切る春日通りの向こう側に、白い鉄板で四周を隔離された空き地が現れます。ここには2003年まで、戦前を代表するモダン・アパート「大塚女子アパート」が建っていました。
2007年10月29日~12月9日の間、千代田区立四番町歴史民俗資料館にて開催された『平成十九年度特別展「江戸町与力の世界 -原胤昭が語る幕末-」』にて元文京支部員故深沢良太郎氏(明治三年~昭和二十五年)が経営されていた深沢良太郎商店から元南町奉行所与力、原胤昭(はらたねあき)氏が明治以降購入された古書の一部が他店から購入された古書と供に深沢良太郎商店の値札帯の付けられた状態でガラスケース内に展示され「文京の古本屋」の歴史の深さを伺わせる展示物となりました。
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