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トップページ « 読みもの / 文の京サロン / 第八回:「わが町探訪 第三回『映世神社』(文京区本郷六丁目十四)」
この辺り一帯本郷六丁目(旧森川町)はもとは本多家の屋敷町でした。江戸時代のはじめから、岡崎藩本多家(森川町一-一)の脇に初代本多平八郎忠勝を祀る「映世神社」(森川町一-ニ、現本郷六-十四)がありました。
本郷通りから西へ入って正面に本殿、北側に神楽殿が建ち、現在の宮前広場のほぼ中央には高さ約四メートルの石の鳥居があり、帝大前通りから見えていました。例年十月十八日、映世神社の祭礼は盛大で本多家の使者が威儀を正して参詣し、屋台が並び大変賑やかでした。昭和十年頃に私の家内姉妹が神楽殿で三味線を弾いていた様子が写真に残されております。
本殿の裏側に土を盛り上げた小山がありました。江戸時代には二階建ては少なく、小山の上からは富士山も見えたと思いますし、小山は江戸時代中期より興った富士講との関係があったのかもしれません。明治四十一年、蓋平館別荘(現太栄館、本郷六-十-十三)三階に移った石川啄木は「富士が見える」と喜び同年九月の日記に「下の谷の様な町から涌く様な虫の聲」と書いております。
神楽殿と本殿脇の銀杏との間に煉瓦造りの交番があり、それを作る時に町内に居た徳田秋聲氏も寄附されました。交番は昭和五十一年に廃止され、「本郷消防団地域活動センター」に変わりました。
太平洋戦争中は森川町や近隣から出征する人は神社でお祓いを受けて出発しました。太栄館会長小池栄一氏もその一人で「昭和十七年神社前に置かれた木製の台に上り、壮行会が行われ挨拶をして郷里を離れて行った。」と語っておられます。
昭和二十年終戦となった後映世神社は無くなりました。祭神は本多家へ、鳥居は根津神社北参道に移されましたが、根津神社の境内整備の時(平成元年)老朽化が進んだ為解体して境内に保管されました。映世神社の建物と戦時中防空壕のあった小山一帯は分譲地となり、その時(昭和二十四年)宮前青果店、ベーカリーカヤシマ等も出店しました。その後鳥居のあった土地も売りに出た為一部を森川文化倶楽部(現森川町会)が購入し文京区に「広場」として「寄贈」し昭和二十七年名実ともに現在の「宮前広場」となりました。
現在も「宮前広場」「宮前通り」等「宮前」の言葉が残って居ります。元衆議院副議長原彪氏宅(本郷六-十三-九)付近を両親は「宮裏」といっておりましたが、最近はその呼び名を聞くことが少なくなりました。
この稿を書くに当たり、太栄館会長小池栄一氏から資料の提供を受けた事を付記します。
(文京支部員 棚澤書店 棚沢孝一)
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