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トップページ « 読みもの / 文の京サロン / 第十回:「わが町探訪 第五回『本郷弥生交差点』(文京区本郷六丁目二十六)」
歴史と文化の風土に恵まれた町の続く本郷の中心に、「本郷もかねやすまでは江戸の内」と言われる本郷三丁目の交差点があります。その本郷通りを北上すると岩槻街道になります。中仙道と分かれる所が「追分」で、その手前に言問通りと交わる「本郷弥生交差点」があります。私たちが日頃目にしているこの交差点は元は十字路ではありませんでした。いくつかの過程を経て今日の形になりました。その歴史をたどってみます。
江戸時代万延二年(一八六一)の地図によると加賀藩前田家の上屋敷(現本郷七丁目)と水戸藩徳川家の中屋敷(現弥生一丁目)の問は道路がありませんでした。明治にはいり東京帝国大学と第一高等学校が設置された頃から道路が出来たようで明治十六年(一八八三)の地図には記されています。夏目漱石の小説「三四郎」(明治四十一年)には追分に居た三四郎が「高等学校の横を通って弥生門から入った」と書かれています。多くの先生や学生の通ったこの道路も帝大前通り(本郷通り)とT字路に交わっていました。 大正十二年(一九二三)関東大震災の時、下町方面から大勢の人がこの細い道路を通って避難してきました。当時、T字路の突き当たりにあった我が家は店の雨戸が人の波ではずれそうになり戸の内側から両親や店の人が押えていた」と聞いております。
昭和十六年(一九四一)「強制疎開」によって初めて「十字路」になったのです。この時帝大前通り十軒の店舗や奥の質屋、下宿、住宅が移転し、石井布団店は家屋を今の形に改築、須崎医院はすぐ南に、大阪屋茶店、城石理髪店は現在地に、棚澤書店も分店のあった今の所に移りました。
私が自動車運転免許を取得した昭和三十四年頃から「モータリゼーション」という言葉と共に道路が渋滞するようになり言問通りの拡張が要望されていましたが、東大の研究に影響があってはいけないなどと云ううわさもありその実現は遅れていました。
昭和三十九年(一九六四)東大農学部一号館の道路よりの窓を二重窓にする等、いくつかの改善策を行って弥生一丁目の言問通りは現在の道路幅になりました。この時、農学部正門横にあった交番が交差点角に移りました。「実のなる銀杏」が歩道上の交番脇に残っているのはここが農学部構内だった名残です。さらによく見るとこの銀杏と工学部構内の道路沿の銀杏とは本郷通りと平行の同一線上に植えられていたことがわかります。
その後、交通量が増え現在に至って居ります。
(文京支部員 棚澤書店 棚沢孝一)
(『慈愛だより(発行 慈愛病院様)』より著作権上の関係から初出掲載時の地図を除いて転載致しました。また、連載の順序は初出時と異なります。)
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